「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」作品集

母への手紙

母のおまじない

境 俊人(和歌山県和歌山市)61歳

母さん、そちらの景色はどうですか。私は母さんのおまじない忘れたことはないよ。
あの時は、七年前だった。
「いいお母さん顔やなあ」
雨降りの夕暮れ時、帰宅途中のバスの中で、ある女性の横顔を見てそう感じたのである。
前の女性とにこやかな笑顔で話をしている。声は聞こえないけれど落ちついた穏やかな表情だ。やさしそうで品が良い。
よくマスコミなんかでお嫁さんにしたい女性とかは、よく出てくるけど、お母さんにしたい女性アンケートなんてのはあんまり見かけない。
私は、和歌山から三重に単身赴任中。実家の母は、遠くてあんまり訪ねていない。
その母が危篤との知らせが、携帯電話のメールで飛び込んできた。
今、バスで見かけた女性の顔が、母の顔になってきた。
もうすぐ駆けつけるからね。待っててね。待てるよね。
あわてて帰省の途に就いたが、間に合わなかった。
振り返ってみると、母は、困った時には、いつもおまじないをしてくれた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
このおまじないを聞くとなぜかすっかり落ち着いて、うまく事が運んできたように思う。
小学校三年のとき、鎖骨を折ってしまった。初めての手術。心臓は、ばくばく。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。簡単な手術だからね。すぐ終わるからね」
なぜかすっかり安心してしまったことを思い出す。
大学受験のときだってそうだ。第一志望の受験に失敗したとき、わんわん泣きながら電話してしまった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。次は、合格って神様からお告げがあったからね」
社会人になったころ、友人の連帯保証人になって多額の債務を負ってしまった。
「騙すより騙された方がよっぽどいいわよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ。出世払いでいいからね」
全額負担してくれた。
今も困った時に母の言葉が聞こえてくる。
「母さんはね、体は弱いけど心は強いんだよ。体が強くても心が弱いとだめなんだよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
母さん、今まで千の風になって、見守ってくれてありがとう。
もう私は、だいじょうぶ、だいじょうぶ。


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