母の通夜、父は何を思ったのか、白い紙に鉛筆で何かを一生懸命書いていた

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今は亡き父への手紙

父から母への最期の手紙

今年で父が逝去して、四年目の命日を迎えた。

父は、二〇〇〇年九月に脳梗塞を発症し、左側半身の自由と発声機能を失った。家族として最も辛かったのは、大学院理学系統で博士課程を専攻した程の抜群の数学的センスの持ち主だった父が、数字や文字を全く理解できなくなったことである。

発症後に自宅の壁にかかった時計や電話の文字盤に書かれた数字を黙っていつまでも眺めている父の姿は、子供の頃から数学的センスに驚愕していた私には見ていられない光景であった。

子供の頃、算数の宿題をしている時に、父に「問題を見た段階で解答はおのずと浮かんでくるはずだ、その後、解答に至る式を考えなさい」と言われ、子供心に「世の中の人が皆父のように明晰な頭脳の持ち主ではない」と反発したものである。

そんな父が大学院時代に家庭教師のアルバイトで教えに行っていた家に花嫁修業に来ていた母と結婚した経緯を父の友人から聞いたのは、私が高校生になった頃である。とても信じられなかった。

父は休日も朝から読書、それも英語、ドイツ語、フランス語の書物を乱雑に積み上げて書物の中で没頭している。子供の私が休日を持て余していても全くお構いないしで、そんな時は、高校時代ソフトボール部のピッチャーで主将だった母が元気よく、「キャッチボールをしようか」と誘ってくれた。私のキャッチボールの相手は、いつも母であった。

その父を残して、母は突然他界した。通夜の夜、父は何を思ったのか、白い紙に鉛筆で何かを一生懸命書いていた。数字や文字を全く理解できなくなった父が脳梗塞を発症して以来、初めての物書きかも知れない。

私がのぞき込むと、父は目の前にあったカレンダーの数字を懸命に震える文字で写していたのである。父は母と学生結婚に至るまでに、数えきれない手紙攻勢を掛けて結婚に漕ぎ着けたとも父の友人から、聞いていた。

父は、母に対して一生懸命に昔のように手紙を書いていたのかも知れない。でも今は、数字や文字を全く理解できず、人から見れば、ただカレンダーの数字を写したものかも知れないが、それは母に対する父からの最後の手紙だったのかも知れない。

私は、父が母に対して書いた最後の手紙を、母の棺の中にそっと忍ばせた。母には、きっと父の手紙の内容は分かるに違いない、父の感謝の言葉が連ねてあるのであろう。素敵な両親の子供であったことを私は忘れず、自分の子供達にも両親のことを伝えていきたい。

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」より

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」は、父母、祖父母、先生、友人、近所の人など。“あの人”とかつて一緒にいた時に言えなかったこと、想い出や、“あの人”が亡くなった後に伝えたくなったこと、感謝の気持ちなどを綴ったお手紙です。

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