葬儀を終えられたご家族からのメッセージ


Vol.20 最愛の母の後を追うように亡くなった父。第二の結婚式のようなお別れ会でした

喪主様お名前:神林様 居住地:東京都 故人様の続柄:父親
最愛の母の後を追うように亡くなった父。第二の結婚式のようなお別れ会でした
葬儀施行日 2017年02月03日 施行葬儀社名 コムウェルセレモニー
担当者名 早川貴規 式場名 ご自宅
火葬場名 日華斎場・多磨葬祭場 宗旨 無宗教
葬儀スタイル 家族葬 参列者数 10名
葬儀費用 50万円

父は高度経済成長期を支えた、絵に描いたような昭和の人でしたね

――お父様はどんな方でしたか?

神林様 父は単身赴任で都市開発の仕事をしていたサラリーマンでした。
まさに昭和の高度経済成長期を支えた、絵に描いたような昭和の人でしたね。 豪放磊落なタイプで、口調が荒いところもありましたが、明るく優しくみんなに愛されるキャラクターでした。 家に居ることが少なかったので私は母と過ごす時間の方が多かったです。父が帰って来る時は「また来てね」というくらい忙しい人でした。

母の方が7つ年上の姉さん女房で、旅館の末娘でした。 父が会社の新人研修の下見に母の実家の旅館を訪れた時に、そこで年上のお姉さんだった母に一目惚れをして、それから何回も旅館に通ったみたいです。

――お父様がお母様の介護をされていたそうですね。

13年前、父が退職するその日に母が脳梗塞で倒れました。 それ以来、父はずっと母の介護をしていました。デイサービスは最後のほうまであまり使いませんでした。 ヘルパーさんは最後の5年間くらいだけお世話になりました。 母は施設に入ることなく、最後まで自宅で介護をすることができました。
父は毎朝6時半に起きると朝食の準備をして、それから母を着替えさせていました。 洗面器に温度を調整したお湯を用意し、顔を拭くタオルと手を拭くタオルを別々に用意していたのを覚えています。 細かいところまで、とても献身的に介護をしていました。
母はとてもチャーミングな性格だったので、介護のしがいがあるというか。 可愛いおばあちゃんだったんですよね。
ある晩、父は酔いながら私に「母さんのために生きているんだよ」と言いました。きっと自分のせいで母がこうなったと心の中で謝っていたのでしょう。
以前はあまり手伝わせてくれなかった父も、年齢と介護の疲れから少しずつ私を頼ってくれるようになりました。

母は半身が麻痺状態でありながら丈夫に振舞おうとする人でした。 遠くに住んでいた私は母に少しでも楽しい時間を過ごしてもらいたくて、ハガキマンガを描き始めました。
そのハガキが今の私の「めぐろのY子より」のブログに発展しました。
Y子のブログは自分を表現できる場にもなり、苦しいことはネタとなり、介護中救われることも多かったです。
このハガキマンガを描くことで人生は大きく変わった気がします。

その後、介護疲れから父が昨年の夏に倒れて入院しました。 つづけて母も別の病院に運ばれ入院することになりました。 父は快方に向かったのですが、母はそのまま亡くなってしましました。

介護を通して父と同士になれたような気持ちでした

――お父様とは毎晩連絡をとられていたようですね

神林様 実は母が倒れるまで、父とはほとんど会話をしたことがありませんでした。
昔は娘と父親で会話もあまりなく、やはり距離がありましたね。
介護はのっぴきならない状況で、お互い喧嘩をしたり、慰め合ったり、笑い合ったりなどしてお互い支え合い、本当に深く父と繋がれた気がしています。 介護は辛くて大変なことも多いですが、良い側面もあったなと思えます。 私は介護を通して父の良いところをたくさん見ることができました。
母は、体を壊してからは体温調節が難しく、また遠出に耐えられる体ではないという理由からほとんど外出はできませんでした。
最初はいろんなことを諦めていましたが、諦めることをやめた時、気持ちが楽になりました。
父とは、とにかく「楽しもう」と言って過ごした13年間でした。
できるだけ家族が介護生活を楽しく過ごせるように、車椅子でもあちこち旅行に出かけるようになりました。
車椅子の母を連れてディズニーランドに行ったりもしました。
明るい介護生活だったと思います。

一生懸命母の介護をする父の姿をみて「夫婦っていいな」と思いましたね。
その頃、私もちょうど結婚を決めた時期でもありました。
父は短気だけど明るく、怒ることがほとんどない優しい父親でした。
大学生の頃は、私が夜遅く帰ると必ずメモが置いてあり、「寒かったでしょ。お風呂に入って寝なさい」なんて書いてあるんです。 父は私が結婚してからも毎日メールを送ってくれていました。 きっと寂しかったんでしょうね。
あまり書くことがないからニュースで見た天気予報をそのまま送ってきたりしました。 タイトルには「明日の天気」と書いてあり、天気の話と合わせて母の様子を伝えてくれたりしていました。
本音を言うと当時はうっとうしいと思うこともありましたが、今になるとやはり寂しいものですね。
介護を終えて思うことは「大好きな両親の面倒をみることができて幸せだった、自分が健康で良かった」ということです。家族とのかけがえないのない思い出がたくさんできましたし、父とも介護を通して心が通じ合えました。

こういう気持ちの介護って愛のエネルギーが溢れていて幸せなものです

――いつごろから葬儀の準備をはじめましたか?

全然調べてなかったのですが、生前から両親との間で葬儀をこんなふうにしてほしいなどの話し合いはしていました。
「お坊さんは呼ばずに、歌って送り出してほしい」と話していたので、両親とも無宗教でこじんまりとした家族葬を選びました。
母の葬儀で父はとても悲しんで泣いていたのを覚えています。
そして、4カ月後に母のあとを追うように父が亡くなりました。76歳でした。

お経を読まない代わりに歌を歌うお別れ

神林様 両親が新婚の頃、家には父の弟や居候の学生などが同居しており、夜はみんなで歌を歌っていました。 ちょうど歌声喫茶が流行った時代だったので、よく若い方が集まっては歌を歌っていた家でしたね。
私もなんとなくですが記憶に残っています。 両親とも葬儀には当時一緒に歌を歌っていた仲間や両親の兄弟が集まりました。 母の時は母の好きな曲を、父の時は父の好きな曲をみんなで歌いました。

――ちなみにどんな曲を歌われたのですか?

父の時は、合唱コンクールで歌うような『流浪の民』やサウンド・オブ・ミュージックの『エーデルワイス』、フォークソングの『今日の日はさようなら』を歌いました。私の友人のピアニストが伴奏を弾いてくれて、みんなで大きな声で歌いましたね。親族も協力的で、とても楽しくて、笑い合って両親の思い出話をしながら、たくさん歌を歌いました。

――温かみのある手作りのお別れ会ですね

まるでお楽しみ会みたいなお葬式でしたね。
自宅だったので、緊張感もなく、夜中もたくさん話しかけたりできてよかったです。
参加者の人も含め両親の思い出の写真を壁にたくさん貼って。
ものづくりが好きだったので作品も飾りました。
父は趣味の水墨画を、母はデイサービスで作った人形や塗り絵などの作品を飾りました。 他にも、寄せ書きや庭の花をたくさん飾ったりなど、とにかく手作り感満載の会にしました。
父の好きだった小説やお菓子のもなかを置いたりなど、お誕生日会みたいですね。両親の結婚した時の母の着物の帯も飾りました。 本当に「今までお疲れさま」というあつい想いのこもった会ができました。 父は母の後を追うように亡くなったので、第二の結婚式のようなお別れ会になりました。

編集後記(コバミホの感想)

コバミホの感想

今回のお話もかなり家族愛溢れる内容でした。体を崩され家にいる時間が多いお母さまを励まそうと、絵葉書を送り続けたお話はとてもユニークで、親子愛を感じたストーリーでした。 ご自宅での介護はとても大変なものだとよく聞きます。朝昼晩お父様が面倒を見られ、プロ並みの気配りでお母さまを支え続けたことに夫婦の深い愛情を感じました。
またそんなお母さまのご葬儀を、ご自宅を式場にして、ご親族で作ったことに、この家族らしさを改めて感じました。 葬儀社が用意するものを受け入れた式場ではなく、既製品ではない、温かい空間が創られたのだと思います。
思い出の歌を皆で歌ったり、庭の草花を摘んで飾られたり、一つ一つにお母さまへの想いが込められていたのでしょうね。
ご本人は全てプロデュースされたのでとても疲れたとおっしゃっていましたが、後悔のない送り方ができたのだと思います。
最後に、神林様の家族が主人公になった本を読ませていただきましたが、思わず「クスッ」と笑ってしまうお話がいくつもありました。
仕事の休憩時に何回も読ませてもらいたいと思います。

葬儀を終えられたご家族からのメッセージTOPに戻る