最期に思い出すのは敵? 家族? これまで? これから? 【辞世の句―戦国武将編】


 

 死に直面したとき、あなたはどんな言葉を遺しますか? 最期の言葉として自分の死後も伝えられる「辞世の句」。

 たくさんの歴史上の人物や有名人が、辞世の句を遺しています。今回はその中でも「戦国武将編」として、常に死と隣り合わせだった戦国武将たちの辞世の句をまとめてみました。(和歌、俳句の体裁を取っていないものもあります)

なお三年、わが喪を秘せよ
         武田信玄

武田信玄肖像(山梨県立博物館蔵)

1573年没。その前年に徳川家康軍を破り、これからまだまだ天下取りに向けて進軍すると思われていた信玄ですが、そのころから肺結核で体調が思わしくなかったといいます。

  遺書にはこの言葉の補足として、自分が生きていると見せかけるために影武者を使うことや、花押(今でいう印鑑のような、本人自筆の証明となるもの)を書いた紙を遺すので、文書にはそれを使うように、という指示が書かれていました。

 

極楽も
地獄も先は
有明の
月の心に
懸かる雲なし
      上杉謙信

上杉謙信像(上杉神社蔵)

1578年没。武田信玄と人気を二分する上杉謙信。出陣を前にして意識不明になり、そのまま亡くなりました。この句は出陣前に詠まれたもの。行く先が極楽か地獄かはわからないが、どちらにせよ自分の心には一片の曇りもない。というような意味です。

出陣前というのは、まさに死を覚悟する瞬間だったのでしょう。

 

順逆二門に無し
大道心源に徹す
五十五年の夢
覚め来れば
一元に帰す
     明智光秀

明智光秀像(本徳寺蔵)

天下を取る寸前の信長を斃した光秀の句。本能寺の変のあと、中国地方から舞い戻った羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に敗れました。

「正しい順と逆の順をつなぐものは一本であり、それ以外はない。人の守るべき道はわが心の中にある。五十五年の夢が覚めていく今、すべてはひとつ所に帰る」

という意味なのですが、これは自分が主君である信長を討ったことで世間の毀誉褒貶にさらされることに対し「自分は恥ずかしいことをした覚えはない」と訴えているような内容に読むことができます。

 

露と落ち
露と消えにし
我が身かな
浪速のことは
夢のまた夢
      豊臣秀吉

豊臣秀吉像(高台寺蔵)

 さて、そうして光秀を破り、その後織田家の重臣だった柴田勝家にも勝って天下人となった秀吉の辞世の句。

貧しい家に生まれ、その才覚で信長に取り立てられ、最後には天下を取るという、歴史上屈指の成功者。金の茶室を作り、側室として女性を何人もそばに置き、自分にできないことはないと言わんばかりに派手な生活をしていたことでも知られます。

そんな秀吉が最期に遺した言葉は、そんな自分の人生を「はかない夢のようなものだった」というものでした。もしかすると豪華絢爛な大阪城の中で死に際して、自分の幼い頃を思い出していたのかもしれませんね。

 

昔より
主をば討つ身の
野間なれば
報いを待てや
羽柴筑前
     織田信孝

太平記英勇傳(歌川国芳作)

 そんな秀吉のことを心から恨んでいた人物の辞世の句。羽柴筑前とは秀吉のことです。織田信孝は信長の三男で、本能寺の変ののち秀吉と共に光秀を討った人物。にもかかわらず、その後秀吉に母と子(信長の妻と孫)を殺されてしまいました。

 信孝は秀吉を天下の大反逆人とみなし、内海という場所の野間大坊という寺に送られた際にこの歌を詠んで、自害しました。

 たとえ下剋上の世とはいえ、秀吉のしたことは信孝にとっては決して許せないことだったのでしょう。すさまじい怨念が感じられる辞世の句です。

 

是非に及ばず
      織田信長

家臣であった明智光秀に攻め込まれた有名な「本能寺の変」。光秀軍の襲来を告げられた信長は、こう言って自ら寺に火を放ち、その火の中で自害しました。

死の直前、信長は最期まで付き添おうとしていた女房衆に「女はくるしからず、急ぎ罷り出よ」と言って避難を指示したといいます。

 

 以上、今回は人気の高い戦国武将の辞世の句を紹介しました。死と隣り合わせのこの時代、辞世の句ひとつにも、その人となりや人生がよく表れていてドラマを感じますね。

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