千葉県在住のMさんは、2019年10月に、9年間がんで闘病されたお母様をホスピスで看取りました。2回目の月命日を終えたところというタイミングで、闘病の経緯や終末期医療のこと、そしてご家族でお見送りしたご葬儀のことについてもお話しをお聞きしました。
目次
しっかり者の母は自分で調べ、この先どのような症状が起こるかをすべて把握していた
−お母様は、どのような闘病の経緯をたどられたのですか?
母は、父の転勤に伴って福岡に移り住んでいたのですが、9年前に子宮がんが見つかりました。腫瘍の摘出などの治療を経て、その後、別の原発がんで乳がんが見つかりました。また、右太腿のリンパ浮腫で亡くなる直前には腿が倍ほどの太さにむくんでしまい、歩く時は右足を引きずっていましたし、蜂窩織炎(ほうかしきえん)で39度以上の高熱を出すことも年に2、3回ありました。
そうした状況でしたが、私は東京で勤務していましたので、なかなか福岡へは見舞いにも行けませんでした。
母は非常にしっかりしていた人で、芯が強かったんです。福岡では近くの病院にかかっていたのですが、自分でスマホを使って情報収集をして、同じ病気になった人のブログなどを通じて、今後の自分に起こるであろう、予想できる症状などはすべて知っていました。ですから、乳がんになったときに聖路加病院でセカンドオピニオンを受けたのですが、「全部、私の知っていることだったわ」と言っていました。
ただ私は、母がすべて自分で調べていることを「怖いな」、とも感じていました。ご自身の闘病生活をブログに書き記し、治療の過程を公表する方は、おそらく一般の方よりも自己主張が強いのではないかという印象がありました。そうした感性の方からの情報だけで、果たして偏りはないのか、その情報を受け取った母が追い詰められていかないか、ということに不安を感じていたのです。とはいえ、スマホを渡している以上、母が調べることを止めることはできません。
父が付き添い「一緒に医師の話を聞く」と言った時も「私が一番知っているから」と付き添いを拒みましたし、すべて自分で決断していました。ですから、詳しい症状も、抗がん剤の種類も、私たちは全然知らなかったのです。いつ治療をするのかといった日程などは聞いていましたが、治療の内容は全くわからない状態でした。
父と母は、母が亡くなった年の4月に福岡から関東に戻って来ました。それまでに、3回の抗がん剤治療、2回の放射線治療を経ていた母は、その後もできる限りの治療をしたいと希望していました。それでさまざまな病院を回ったのですが、どの病院へ行っても「治療はやり尽くしていて、医学的に効果が認められている治療は、ほかにはもうありません。むしろ今後のために緩和病棟にかかれるようにしておいた方が良いでしょう」と言われました。それで、母は「見捨てられた」と言っては次の病院を探す、そうして、そのまま数ヵ月を過ごしてしまったんです。
でも、後でわかったのですが、緩和ケアに入院できるのは、病院によっても違いますが、余命6〜3ヵ月と判断された時点のことだそうです。探すように勧められたということは、余命が1年を切っているとお医者さんは見立てていたということだったんですね。最終的には緩和病棟へ行きましたから、病院探しで時間を費やしてしまったことは悔やまれました。
「緩和ケア」に勝手に抱いていた温かいイメージ。認識不足が今も悔やまれる
−特にどういう点で悔やまれたのでしょう?
母が不安がっていたので、お世話になる緩和ケア病院は、24時間家族の出入りOKで、体調が良ければ帰宅もでき、不安定になったら再入院させてもらえるところを選びました。
本当に不勉強だったんですが、私は緩和ケアとは痛みをとってくれるだけでなく、がんの治療はしないけれど対症療法的な治療は行なってくれると思っていたんです。ところが、お腹が張っていて腹膜炎の可能性があってもレントゲン一枚撮ってくれることはありませんでした。相談しても、まさか「モルヒネを使って痛みを感じない状態ですし、原因がわかっても治療しない以上、あまり意味もないので検査もしません」と言われるとは思いませんでした。もちろん「気管挿管をしない」などの同意書等は書きましたが、血液検査すらしないとは思わなかった……。
緩和ケアという言葉の印象から、とても温かいイメージを勝手に抱いていました。その認識のギャップが、今でも悔やまれます。時間はだいぶあったのに。母に任せきりで、自分で調べるなり聞きに行くなりしなかったことが今でも悔やまれます……。もちろん、そうした緩和ケアの方針が合っている人もいるとは思いますが、私たちのようにギャップが辛い人もいるのです。
−入院中のことで、ほかに心残りなことはありますか?
介護認定についても、保険の使い方がわからなくて。要介護2の認定を受けるまでに手違いがあって2ヵ月間も連絡が来なかったですし、わかっても在宅介護でどのように使えるかも知らなくて、調べようと思っている間に母の容体が悪化してしまいました。母は緩和ケア病棟に入院して1ヵ月半で亡くなりましたが、自宅に帰りたがっていましたから、慌てて準備をと思っても、いろいろ間に合わず後の祭り。とはいっても、その時は家族は誰も気持ちがついて行けず、気も回らない状態だったと思うので、準備の大事さを痛感しました。父は健在ですから、絶対に同じ轍を踏まないと誓っています。母にはもう、どんなことをしても謝りきれないので……。
母は相当我慢強いし、忍耐力が強いから、5歳の孫娘、私の妹の子ですが、その子が小学校に入るまでは……、と思っていたんじゃないかな。
通夜から葬儀までは、最後に一緒に過ごすチャンスだった
−ご葬儀についてはどのように決められたのでしょうか?
母は茶目っ気のある人でしたが、人付き合いは下手なタイプでした。長いこと福岡にいたこともあってこちらには知り合いも少ないので、家族葬で良いかなと考えました。
葬儀にあたっての家族の一番の願いは、母を家に連れて帰ることでした。母がずっと家に帰りたがっていましたし、亡くなる前の2ヵ月は、平日の昼は父、夜は妹、金曜の夜から日曜の夜までは私がというように、24時間体制でずっと付き添っていたので、家族も疲れていましたから。それで自宅でいったん母も家族もみんな休んで、それから、母に棺の中で着せてあげる新しい服を買いに行くとか、そういう時間を過ごしたいと思いました。リンパ浮腫や腹水で持っていた洋服は入らなくなっていましたので。でも闘病中に薬漬けでしたからこれ以上薬を使うのは本人もいやだろうと思い、エンバーミングはしませんでした。
−会館での通夜までは自宅で過ごされたのですか?
いいえ。念願がかなって連れて帰ってあげられたのですが、身体の状態があまりに悪く、保冷庫でお預かりした方が良いという葬儀社の判断から、自宅で10分ほど過ごしただけで、葬儀社で急遽確保してくれた保冷庫へ安置することになりました。保冷庫に安置し、面会する時は事前に連絡していました。毎日、午前と午後の2回、行きましたね。父が会いたがって。
−家族葬はどのようになさったのでしょう?
親せきにしか連絡をせず、母の姉と姪、つまり私のいとこです、は大阪から来てもらいました。また東京にいた、いとこの息子たちも来てくれましたが、彼らの母親にあたる私のいとこは、「辛いから」と言って遠慮して来ませんでした。
葬儀社から、喪主の挨拶をどうするか尋ねられ、親せきだけなので、形式張ったことはお坊さんの読経だけにしました。ですから、「出棺でございます」というような大仰な司会もありませんでした。そこは、友人知人を呼ばなかったので、家族だけにふさわしい形にと、吹っ切れていたからできたのだと思います。
進行の案内は、葬儀社の担当者が後方で伝えてくれましたが、お焼香の時も「喪主様からご焼香を」という控えめな案内だけ。そこは、こちらの要望に応えてくれて、邪魔にならない感じで、プロだなと思いました。
通夜の後は、そのまま会館の施設に7人で泊まりました。柩を安置してあるホールの隣室に宿泊施設があり、ベッドルームや畳敷の居間があって、布団を敷いて寝ることもできました。担当者が帰宅した後も出入りでき、夜はビールを買いに行ったりして、皆で「昔、こういうことがあったんだよ」などと母の思い出などを語りながら、一晩中過ごしました。誰かがいないな、と思ってホールを覗くと、柩のそばにいる。思い思いに過ごしながら、午前4時までは皆、起きていたと思います。お式まで遺体は保冷庫に入れていただいていたので、もし一日葬だったら、最後の夜を一緒に過ごすその時間は得られなかったと思います。
それが母と過ごす最後のチャンスだったということに加えて、遺体になった母は、少なくとも今はもう、痛さを感じることはないので、苦しんではいないので……、落ち着いて話せることもありました。闘病中はやはり、母の体調が気になって、ゆっくり話すということはなかなかありませんでしたから。
「マロン(亡くなった犬)にはもう会えた?」なんて、柩の母に話しかけたりして。
−ほかに、一晩ご一緒に過ごしてみて、印象的だったことはありましたか?
母はエアコンを入れて冷やしたホールに安置していたのですが、自由に出入りできるだけでなく、照明の熱が遺体に影響があるからと、細やかに消してくれるなど、担当者の心遣いが嬉しかったですね。それに、宿泊施設には炊飯ジャーがあって、朝炊き上がるようにセットしてくれてあったんです。おかずは冷蔵庫に入っていて、電子レンジで温めるだけになっていましたし、フリーズドライの味噌汁も用意されていた。自分たちで間に合う時間に起きて食べれば良かったので、ゆっくりとした時間を過ごすことができました。通夜振る舞いは、料理の選択肢は限られていましたが、中華料理とお寿司のセットは作り立てで美味しかったです。とにかく家族で、ほぼ制限なく自由に過ごさせてもらったので、お式と設備、サービスについては満足度が高かったですね。
−柩には何を入れられたのですか?
湯灌の時に白い着物を着せてもらったので、母が好んで着ていた服を着物の上からかけてあげました。また、家族で書いた手紙と写真も入れました。本当は姪が母の似顔絵を描いたので入れようとしたんですけれど、あまりにうまく描けていたので、結局その絵は入れるのをやめました。実物は妹宅にありますが、写真を撮り、私の自宅の玄関にも飾っています。
姪はね、「ばば、ばば」と母のことを呼んでいて、とても仲良しだったんです。ずっと闘病中の母の姿を見ていたためか、彼女の描いた母は髪の毛がとても短かったのですが、最後に描いてくれたこの絵は、ちゃんと母の雰囲気と、実際の髪の長さを的確にとらえていて、母に「良かったね。髪が長くなったよ」と、よく話しかけています。 姪にはこの絵をシールにプリントして、お年玉袋に貼って、「ばばからだよ」って言ってあげようと思っています。

コンビニの配送トラックを見ると、母の言葉がよみがえる
−ご葬儀の後のご様子についてもお聞かせください。
父は家で遺影を見るたびに、泣いていました。遺影が大きくて、家中どこからでも見えるから。それで、四十九日を過ぎたところで、一回り小さな写真立てに変えました。父はまめまめしい人ですから、母が入院中は毎日片道30分車を運転して、病院に通っていたんです。母は「せからしいなぁ」と煩わしがっていましたけれど、看護師さんからは仲が良いですねと言われていました。父は鍵に鈴をつけていまして、父が病室に近づくと鈴の音が聞こえてくるんです。それを聞くと母が、「せからしい人が来た」と(笑)。
今、父は飼い犬のモモにベッタリです。モモも、以前は私が帰ると出迎えてくれたのに、今では私には見向きもしてくれません。妹や姪っ子のことは迎えてくれるのに。どうしてかな……。
そういえばモモの母犬が、先ほど言ったマロンという名前なのですが、彼女が5月に亡くなったんです。その時はもう余命を聞いていたからなのかもしれないですが、母は「よくがんばった、私ももうじき行くから」と、マロンに声をかけていました。「何を言ってるの、縁起でもない」と思いましたけれど。モモは、ときどき何かに反応しているようなことがあるので、「もし、お母さんが来ているなら教えてね」なんて言っています。
私自身は、母の夢はそんなに見ませんが、記憶がフラッシュバックすることがあります。入院中、母の調子の良い時には早朝、病室を出て外の空気を吸いに行っていました。本来は禁止されているのでしょうが、病院もそこまでうるさいことは言いませんでした。そして外に出た時に、病院内のコンビニエンスストアに納品に来るトラックを見ると、母は買い物へ行きたがるんです。ある朝、連れて行くと、子供のように「焼きたてパンをくださいな」と言ったんですね。トラックに描かれたパンの絵を見たからでしょう。そのことが忘れられなくて。そのコンビニのトラックを見ると、思い出します。
小さいスピーカーを買って、外出時には、母の好きだった伊東ゆかりなどの歌謡曲を、パソコンからBluetoothで飛ばして、流したまま出かけることもあります。音がないと寂しいといって、入院中よくテレビを点けていましたから。部屋も明るい方が好きだったので、毎朝、必ずどんな天気の日でもカーテンと窓を開けて、明るくしてあげています。
絵を描くセラピーも受けました。用意された紙に自由に描くのは、良いと思いましたね。ハートが寄り添っている絵を描いたんですよ。母とマロン。今、寄り添っていると良いな、と思って。話さずにもくもくと描く時間には、意味があるなと思いました。

葬儀は見積もりを数社とりましたが、結果的に決めた葬儀社で良かったと思います。お金を出した本人である父が「あそこで良かった」と言っていましたから。また、新設の火葬場でしたが、いつもマロンやモモの散歩に行っていた場所だったので、なじみの場所というか、満足でした。亡くなるまでのことで後悔がたくさんあるので、お式だけでも満足のいくところでできたことは少し、救われた思いがします。これで葬儀まで悔やまれる内容だったら、気持ちのやり場がなかったですね。
ですから、やはり、心残りは看取るまでのことですね。緩和ケアはよくよく考えた方がいいと思っています。
−緩和ケアのことは、一般には知られていないことも多いようですね。
母は、最期の日こそ意識がありませんでしたが、それまでは「先生を呼んで、どうしてこんな状態になっているのかわからないから、説明をしてほしい」と言っていました。前々から在宅ケアのことも想定して、よい先生を見つけていたら、ケアの部分では至らない部分があったかもしれないけれど、家にあれほど帰りたがった母の気持ちの面ではもっと良い時間を過ごさせてあげられたかもしれないと思います。
緩和ケアが期待と違っていたというのは、ひとえに自分たちのリサーチ不足が原因です。なので、もし、友人知人から相談を受けたら、まずはよくリサーチして、吟味検討することを勧めたいです。
きっと、医療者の側からすれば、母が受けたケアは「緩和ケアそのもの」だったんだと思います。でも、私たち家族がイメージしていたものとは全く違っていた。ここにギャップがあると、後悔しか残りません。できること、できないことは当然あると思いますが、なるべくここのギャップを小さくしておくに越したことはないと思います。
私たち家族の場合は、「緩和ケア=がんのこれ以上の治療はしないが、モルヒネなどをバンバン使ってとにかく痛みだけは感じないようにしてくれる」というイメージでした。でも実際は、どのお薬を使うのか?使わないのか?というほか、点滴ができる状態か?皮下注射しか方法がないのか?などでも、痛みのコントロールは違いました。
また、「どんどん身体の代謝が落ちていくので、身体にお薬が蓄積していってしまい、効果が出ないからと言って使いすぎると、あるとき一気に効果が出て意識がそのまま戻らなくなってしまう可能性がある」と説明を受けました。つまり、ある程度までお薬を使ってしまったら、それ以上使う場合は「このまま意識が戻らず逝ってしまう可能性がある」という覚悟をしたうえでオーダーしてくださいということです。
点滴と皮下注射でいうと、母の場合、お薬の利きをコントロールするには点滴のほうが適していましたが、抗がん剤で血管がボロボロになっていてなかなか針を留置できませんでした。親切な看護師さんが20分も30分もかけてようやく取ってくださった点滴ルートをなるべく長く使えるように、それこそ腫れ物に触るように大事にしました。それでも、そのルートはもって数日でした。点滴だと眠りに入るまで30分ほどで済むところを、皮下注射だとお薬が吸収されるまでに数時間かかってしまいます。
なかなか効かないからといってもう1ショット追加などということもしばしばありましたが、そのたびに「薬を使いすぎるとそのまま意識が戻ってこない可能性」が付いて回ります。結果、薬が効くまで数時間痛がり続けたり、お薬使ってほしいという母を「でも前のお薬からまだそんなに時間が経っていないから、せめてあと1時間経ったらね。ごめんね」といって宥めることが多くなりました。
母が入りたがらなかった緩和ケアにお世話になることを決めたのは、「とにかく痛みだけはとってもらえるところだったから」ではなかったのかと、家族みんなで母に申し訳ない思いでいっぱいになったことを覚えています。
家族ががんになったら、調べておくこと、心構えをしておくことは必要だと思います。急性期のもの以外は、「調べておく時間はいくらでもあったのに」とあとで相当後悔することになるからです。
これだけ情報のあふれている時代です。ありすぎてそれらが正しい情報へかどうかで困ることもあるかもしれませんが、それでも、しておいた方がいい、足を運んでおいた方がいいと断言できます。
−ありがとうございました。