火葬の温度は何度?火葬炉・火葬場の種類と日本の火葬の歴史

小林憲行【記事監修】
小林憲行

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  • 火葬炉の温度は古いタイプは800~950度、新しいタイプは900~1,200度
  • 記録として残っている日本で最初の火葬は、法相宗の開祖である道昭の火葬
  • 日本では行政によって火葬が勧められ、2015年の火葬率はほぼ100%

火葬とは、故人の遺体を焼却し、残った遺骨を葬る方法で、現在の日本では主流となっています。今や当たり前のように行われている火葬ですが、古くは土葬が主流でした。

火葬が日本でいつから広がり始めたのか、どのように普及していったのかを時代を追って説明していきます。

また、火葬場はどのような形だったのか、火葬炉が出現したり、今日の斎場のようになったのはいつ頃かなど、詳しく述べていきます。

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火葬はいつから始まった?日本で広まった背景とは

総報酬の開祖である道昭が火葬されたのが、記録として残っている最初の火葬のようです。

明治時代の火葬率は30%前後だったそうですが、その歴史は意外と古く、古墳時代後期の陶器千塚古墳群の一部である「カマド塚」に火葬の痕跡があります。つまり6世紀ごろには火葬は行われていたようです。

また、日本書紀には法相宗の開祖である道昭が700年に火葬されたと記されており、これが記録として残っている最初の火葬のようです。

さらに、702年に亡くなった持統天皇は天皇としては最初に火葬されましたが、それ以後天皇にならって一部の僧侶や貴族などの間で火葬が行われるようになりました。

その後、火葬は仏教の普及とともに国内に少しずつ広まりましたが、その背景には釈迦が火葬されたことにちなんでいるとされています。

平安時代に貴族へ、鎌倉時代に庶民へ火葬が広まる

平安時代になると、火葬は皇族をはじめ、貴族や僧侶の間にさらに大きく広まっていきました。当時は墓地などに浅い溝を掘って、石や土器などで火床を作った火葬場が作られていました。

鎌倉時代に浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗など鎌倉仏教が庶民に普及すると、庶民へも火葬が広まっていきました。この頃の火葬は、野原に薪を積み、その上に遺体を置いて焼く野焼きでした。ほとんどの地域でこの形が江戸時代末まで続いています。

江戸時代には、寺院や墓地に火葬場を設置

江戸時代には、お寺の境内や墓地の敷地に火葬場が作られるようになり、都市部を中心に庶民も火葬をすることが一般的となりました。このころの火葬場は、簡易な屋根や壁を使った小屋の中に設ける火家と呼ばれるものでした。鎌倉時代の野焼きと比較して、徐々に現在の形に近づいてきました。

とは言え、火葬はまだまだ主流とは言えず、地域によっては土葬が主流であったことも多いようです。

火葬が主流にならなかった理由のひとつには、火葬による臭気や煙の問題がありました。実際に浅草や下谷の20数ヵ所のお寺の火葬場が幕府指定地へ移転させられました。

江戸時代にはキリシタン禁制のため、僧侶は檀家で死者が出ると、キリスト教徒でないことを確認してから引導を渡しました

江戸時代は、キリシタン禁制のため寺請制度が強制され、僧侶は檀家で死者が出ると、キリスト教徒でないことを確認してから引導を渡す、つまり悟りの道に導く儀式が行われました。これが現在の葬儀として徐々に普及していきました。

火葬炉が出現して名称が火葬場に

明治時代になると神道派が、火葬は仏教葬法なので廃止すべきと主張したため、明治政府は1873年に火葬禁止令を出しました。しかし、すぐに都市部を中心に土葬用墓地が不足して1875年に撤廃しました。その後は、公衆衛生面から伝染病による死者については火葬にすることを義務づけるとともに、人口密集地域では土葬を禁止する措置を行いました。

この頃、レンガなどで燃焼室や煙突を作った最初の火葬炉が出現しました。これまでと比較すると、貴重な薪の使用が減る、人員が削減できる、燃え残る遺体が少ない、煙突により臭気や煤煙を減らせる、喪主の金銭的負担を減らせるなど、多くの利点があることから、大きな火葬場などでこの火葬炉が設置されるようになりました。

さらに1875年には、政府によって火葬場の煙突の高さを7m以上にするよう義務づけ、1884年には初めて火葬場という言葉を使うとともに、設置場所を人家から120間(218m)以上離れた風上以外とし、臭煙害を防ぐために燃焼室と煙突を備えるよう指示しています。

葬祭場の名前を付ける火葬場も

通夜や葬儀も行える火葬場が登場しました

東京府は1887年に火葬炉を使用する時間を夜8時から翌朝の5時までとし、火葬炉の設置基数や煙突の高さなどを決めた火葬場取締規則を改正し、他府県でも同様の規制が行われました。

この頃から民間に代わって自治体が火葬場の建設を推進するようになっていきます。その後、大正時代には石炭や重油が燃料に使われるようになったことで燃焼速度が大幅に短縮され、その日のうちに収骨が可能になりました。

この頃から、都市部などで火葬場に葬斎場や斎場などの名前を付けるところが増え、通夜や告別式も行える式場が登場し始めました。

公害問題をきっかけに火葬場が近代化

1970年から1980年代には公害問題の意識が高まり、火葬場の近代化が進められました。

燃料は石炭や重油から灯油やガスに移り、電気集じん器の設置、ダイオキシン類抑制のためバグフィルタの設置も増えました。その結果、火葬に伴う排煙の無害化、無臭化が進み、1990年代には煙突が短くなったり、中には煙突を持たずに排気口だけの火葬場も現れました。これらは、近隣住民への抵抗感を和らげることにも繋がりました。

現代における火葬率と火葬炉、火葬場の種類

現在、行政では環境衛生面から火葬を勧めています。特に東京都や大阪府では、条例で一部を除いて土葬を禁止しているほどです。この結果、全国の火葬率は1915年には36.2%でしたが、2015年にはほぼ100%になっています。

このように、わが国では今や火葬は当たり前となって、葬儀の中に位置づけられるようになりました。

火葬場の種類の多様化

このような火葬率の上昇に伴い、火葬炉の進歩も進んでおり、ロストル式と台車式が登場しました。

ロストル式

オランダ語の「ロストル」には、火格子や網という意味があります。炉内に格子状に渡した金属棒の上に棺を乗せて焼却するスタイルから、この名前が付きました。構造がシンプルなため、建設やメンテナンスのコストが安いことがメリットとして挙げられます。

棺の下に空間があり酸素を送りやすく、棺が燃焼した後は遺体にも直接炎が当たるため、火葬にかかる時間は35分から60分程度と、台車式と比べても短時間で火葬が終わります。ひとつの炉で火葬できる回数が多いのも特徴で、東京の都心部など、人口の多い地域で採用されています。

反面、悪臭が出たり、清掃に手間がかかったりすることもあるようです。

台車式

国内のほとんどを占めているのが台車式の火葬炉です。車輪を付けた台車の上に棺を乗せたまま、炉に入れて火葬するスタイルです。車輪があるので出し入れが容易で、耐火性のある素材で台車ができているため台車自身が耐火床となります。

台車式の大きなメリットは、遺体を入れた棺のまま燃焼させるので、人体がそのままの状態で遺骨となることです。そのため遺族にとっての印象が良くなります。また、悪臭が出ることが少なく、衛生的であるともいわれています。

ただし、設備の構造が複雑になるため建設費や維持費がかかります。火葬が済むまで60分から70分程度かかります。さらに収骨の際には斎場の係員が遺骨を崩さないと骨壺に納めることができないといったこともあります。

火葬炉の温度は800度~1200度

火葬炉の温度は高い方が早く燃えるため、火葬の時間が短くて済みますが、一方で温度が高すぎるとご遺体がほとんど燃えてしまい、骨の形もきれいに残らないため、収骨が難しくなります。

そのため古いタイプの火葬炉の場合は、800度から950度、新しいタイプの場合は900度から1,200度程度で温度の設定がされています。また、ダイオキシンなどの有害物質を発生させないために最低温度が800度を下回らないようにするなど、各地方自治体で規定が設けられています。

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