天皇陛下のビデオメッセージで関心を呼んだ言葉、殯(もがり)とは?

小林憲行【記事監修】
小林憲行

記事監修小林憲行

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殯(もがり)とは、古くからの日本の葬儀の風習です。2016年8月、天皇陛下がビデオメッセージで退位の意向を示しました。そこで語られた言葉の中に「殯」があったことから、人々の関心を集めることになりました。この記事では、普段の生活では聞き慣れないこの殯について、生まれた背景や歴史、現代の皇室における儀式のあらまし等について、詳しく説明していきます。

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古代から続く殯(もがり)の風習

殯は、古くは魏志倭人伝にも記録が残されている、日本の葬儀の伝統的な風習です。主に貴人を対象に、死後もすぐには埋葬せず、遺体を棺に納めて長期間仮安置することを指しています。

特に天皇が亡くなった場合は、その規模も大きくなります。棺の安置所として、新しく殯宮(もがりのみや)と呼ばれる建物がつくられ、さらにその周辺は殯庭(もがりのにわ)として整備されました。棺が置かれた祭壇には供え物がされ、親族などの関係者が集まり、多くの儀式や歌、舞なども行われたのです。

しかし安置とは言っても、時間がたてば遺体が腐敗・白骨化してしまうこともあり、必ずしも華美を求めたものではありません。

殯(もがり)が生まれた背景

殯が広まった理由には、大きく2つの説があります。

ひとつは死者の復活を願う中、腐敗や白骨化するなど完全に遺体が原型をなくすのを目の当たりにすることで、その思いを断つということ。

もうひとつは、亡くなった人の祟りを恐れ、そうならないように時間をかけて鎮魂を行うというものです。

これらはどちらが正解、ということではないでしょう。復活を願いながらも、復活が怖いという気持ち。そして、亡くなってからしばらくは復活を願うものの、やがて鎮魂の気持ちへと移行することで、遺族が故人の死を受け入れる期間にもなったでしょう。

いずれにしても一定の期間を死者と過ごす中で、故人を偲びつつ、つらい現実を受け入れるという儀礼であり、これが後の通夜につながったとも言われています。

歴史の中の殯

殯は、日本書紀や古事記の中にも記述を見ることができます。

例えば天椎彦(アメワカヒコ)が死んだとき、父である天津国玉神(アマツクニタマ)が下界に降りて喪屋を建て、関係者が集まり八日八夜の殯をしたと記されています。また一説では、日本最古の歴史書『古事記』に記されている、伊弉諾尊(イザナギノミコト)が亡くなった伊弉冉尊(イザナミノミコト)に会いに行く「黄泉国(よもつくに)」の章は、殯の様子を表しているのでは?といわれることもあるようです。

こうした殯の風習は一般にも広く伝わりましたが、やがて喪屋の多くが墓地につくられ、墓そのものが信仰の対象にもなっていきました。殯が生活の場から切り離され、儀式としても、埋葬するまでの喪から、葬式や年回忌などの行事へ重心が移っていったのです。

皇族における殯

殯は身分が高い人ほど期間が長くなる傾向にありました。

例えば天武天皇の場合、亡くなってから実に2年2カ月以上の長きにわたり殯が行われたと記録されています。

その後、天武天皇の次の天皇である持統天皇の治世になると火葬が導入され、殯の期間も30日程度となりました。それでも社会的に見れば、ごく短い通夜が主流になる一方で、伝統を守る皇室では殯が受け継がれ、今に至っているのです。

天皇のお言葉で一般にも知られるように

殯という言葉が脚光を浴びたのは、やはり天皇陛下のビデオメッセージによるものでしょう。具体的には、「皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯の行事が連日ほぼ2カ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。そのさまざまな行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません」と、殯の行事が連日続くと明言されたのです。

伝統をそのまま受け取るのであれば、その間、遺体が腐敗・白骨化するまで置いておくという意味になります。実際には、そうならないための措置がされるにしても、遺体を納めた棺を長期間、見えるところに置いておくというのは、現代の感覚からすれば確かに「残される家族は、非常に厳しい状況」と言えるのではないでしょうか。

世間ではすっかり忘れ去られてしまったこのしきたりゆえに、あらためて考えさせられるところです。

現代の皇室における殯

皇室の葬儀では、国家が主催する大喪の礼に先立ち、皇室の儀式として「大喪儀」を行うことになっています。

大喪儀では、天皇が崩御した際、「もがりのみや」という名前で殯宮がつくられることになっています。天皇だけでなく、皇后や皇太后の斂葬の儀でも、仮設される遺体安置所を「ひんきゅう」と呼ぶしきたりです。

最近では、昭和天皇、貞明皇后、香淳皇后の崩御の際に、それらが設置されました。いずれも崩御の日から13日目に、遺体を収めた棺が殯宮に移され、45日頃を目安に大喪の礼や斂葬の儀が行われます。

実際、昭和天皇は1月7日に崩御しましたが、大喪の礼は2月24日であり、その間48日ありました。そのうち35日程度の期間が、殯にあてられたことが分かります。

殯の痕跡が残る青森県

一般の社会からはほとんど姿を消した殯ですが、青森県の一部では僅かにその痕跡が残っています。青森では、忌中の家の門に1.5〜1.8メートル程度の長さの木の棒を2本交差させたものを飾る地域があり、これを「もがり」と呼んでいます。

本来の殯は、死者と共に過ごす期間であり、棺の安置所は殯所や喪屋と呼ばれますので、元の意味とは異なります。しかしこれは古の風習が形を変え、この家が忌中であり、ここで死者が葬儀を待っているのだ、ということを知らせているのです。

まとめ

殯は、日本における最も古い葬儀の形であるとされ、皇室でも伝統が残っています。また形は違えど、その痕跡が残る地域もあります。このように、現代でもなお色濃く残る古くからの風習やしきたりもあり、葬儀にはさまざまな形があるものです。もし何か分からないことがあれば、専門知識をもっているプロに相談してみましょう。「いい葬儀」へいつでもお気軽にお問い合わせください。

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