三途・三途の川とは?仏教的な意味と渡り方、六文銭の理由

小林憲行【記事監修】
小林憲行

記事監修小林憲行

スマホCTA(電話をかける)
アイキャッチ下テキストリンク
記事を先読み
  • 三途は、仏教の三悪道「地獄道・餓鬼道・畜生道」が由来
  • 三途の川は、現世とあの世を隔てる境目に流れるとされる
  • 死後7日目に渡るとされ、三瀬川や葬頭河、渡り川とも呼ばれる

「三途」とは仏教用語の1つで、世の中には3つの苦しみの世界、つまり地獄道、餓鬼道、畜生道という三悪道があるとの考えに由来しています。そして、三途の言葉から派生する言葉には「三途の川」と「三途の闇」というものがあります。三途の川は物語りなどで頻繁に用いられるのでご存知の方も多いことでしょう。ここでは三途の仏教的な意味合いも含めて詳しく紹介します。

Adsense(SYASOH_PJ-195)

「三途」とは?仏教における言葉の由来

「三途」という言葉は「三塗」とも表され、もともと「金光明経」という仏典に記された「地獄餓鬼畜生の諸河をして焦乾枯渇せしむ」の一説に由来するといわれています。

仏教の世界には3つの苦しみの道があると考えられていて、これを三悪道といいます。三悪道は地獄道、餓鬼道、畜生道からなります。地獄道は、まさに戦争に象徴されるような相手を傷つけ殺し合う世界で、火や炎に焼かれることから「火途(かと)」と呼ばれています。

餓鬼道は、刀で虐げられる世界であるため、「刀途(とうず)」ともいわれます。

鬼畜道は傍生(ぼうしょう)ともいい、人間を中心に据えて他の生き物を傍らに置くあり様を指し、人間同士もその能力や資質によって他の者を支配する差別の世界を示します。相互に食い合うことから「血道(ちみち)」とも呼ばれます。

三途の川とは?意味と六文銭を渡す理由

三途は三悪道からなる苦しみの道に由来しますが、そこから派生した三途の川はどのようなものなのでしょうか?

三途の川という概念は、仏教が広く伝わった東洋や日本だけに存在する考え方ではありません。例えば、オリエント時代の神話宗教や古代ギリシャ神話でも、現生と死後の世界は川で隔てられているという考え方がありました。この世とあの世が、川という境界線で分けられているという概念は、世界的に広く存在するのです。

三途の川は現世とあの世を隔てる境目にあるとされる川です。

死後7日目に渡るとされる冥途に流れる川で、三瀬(みつせ)川や葬頭河(そうずか)、渡り川とも呼ばれています。

三瀬川と呼ばれる理由は、三途川には流れの速さが違う3つの瀬があり、現生での業の深さによって渡る場所が変わる、という考え方からです。善人は橋を渡り、軽い罪を犯した者は浅瀬を、重い罪を犯した者は流れの速い深い瀬を渡らなければならないという言い伝えがあります。

六文銭と賽の河原

また、三途の川を渡るには「六文銭」を用意しなければならないという話も伝わっています。三途川を渡る前には、死者の着衣を剥ぎ取る鬼の老婆の奪衣婆と、奪衣婆が剥ぎ取った着衣を衣領樹(えりょうじゅ)の枝にかけ案内する懸衣翁に、川の渡し賃として六文銭を差し出さなければならないというわけです。

また、三途の川と密接に関係しているのが、「賽(さい)の河原」です。賽の河原とは三途川の手前にある河原で、親に先立ち冥途の旅に出る子どもはこの河原に立ちより石積みをしなければならないとされています。これも一種の言い伝えに過ぎませんが、「法華経」に説かれる「童子の戯れに沙を聚めて仏塔を作る」によるという説もあります。

三途川の名称は、今日の日本においても各地に現存しています。群馬県甘楽町を流れる白倉川の支流、千葉県長南町を流れる一宮川の支流などには、いまもその名が刻まれています。

>>【六文銭とは】電車やバスの初乗り料金とほぼ同額?三途の川の渡し賃を現在の貨幣価値に換算

三途の川と違う?三途の闇の意味

三途の川に対して「三途の闇」という言葉もあります。

三途とは、前述のとおり地獄道・餓鬼道・畜生道からなる世界です。闇とは、こうした三途の世界での、光の見えない迷いの様、混沌とした様を指します。一般的には死後に逝くべき世界と捉えられていますが、三途の闇つまり地獄道、餓鬼道、畜生道の三悪道は死後の彼方に存在する世界であるばかりか、現実の世界、現実の生活の中にも存在するとも説かれています。

本来、三途とは死後、生前の悪業を報いるために受けなくてはならない3つの苦悩、闇に包まれた境遇を意味する三悪道のことでした。そして、死者が生前に犯した悪業のすえに迷い込む三悪道と、この世の善人を隔てる境として考えられたとされるのが「三途の川」なのです。

三途という概念の仏教的な意味

仏陀は「大無量寿経」で48の本願を説いています。そこには、第一の悲願として「設我得佛、國有地獄餓鬼畜生者、不取正覺」と記しています。つまり、「もし私が仏になろうとしても、この世に地獄、餓鬼、畜生の三悪道がある限りは、悟りを開くことはできない」というわけです。

 

本来、仏教では三悪道や三途の闇とは無縁の平和で平等、けがれない世界の実現を願って日々精進しようと努めます。しかし、現実として人々は三悪道の道に迷い込み三途の闇にもがき苦しんでいるというのが実態であると捉えています。

確かに現実を顧みれば、そうした様相は明らかかもしれません。世界中の人々は一様に、三悪道や三途の闇を克服し、平和で平等、けがれない世界が切り開かけることを願っていますが、戦争や殺りく、また差別や排除が収まる兆候は残念ながらありません。

仏教では解決の拠り所として、他は敵と見なし排除や殺りくの根拠とする自我、つまりエゴの排斥を説きます。仏の悲願は人間のもとの姿に寄り添いながら、本来の願いの実現に努めることです。三途という概念もその一端を表す教えとして捉えることができます。

仏教や葬儀と関係の深い三途の川

ここまで、葬儀に少なからず関係ある「三途」という仏語の意味やそれに関連する「三途の闇」や「三途の川」、また三途の仏教における意味合いなどについて説明しました。三途も紐を解けば深い教えが含まれていることが分かります。

「三途」などの仏教用語や仏教と葬儀との関係など詳しいことをお知りになりたい方だけでなく、葬儀に関することでご相談のある方は、遠慮なくお問い合わせください。

葬儀・お葬式を地域から探す