般若心経とは?意味や全文、わかりやすい和訳を解説

小林憲行【記事監修】
小林憲行

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  • 般若心経(はんにゃしんぎょう)は、般若経典の神髄を短くまとめた経典
  • 般若心経の核心は「般若波羅蜜多」の修行を行い、真言を伝授すること
  • 葬儀では故人への祈祷、法要では自分の徳を故人に向けるため読経する

『般若心経』とは、日本では天台宗真言宗臨済宗曹洞宗浄土宗などの葬儀で広く読まれるお経です。

「はんにゃーはーらーみーたー」「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」などのフレーズは聞いたことがある人は多いかと思います。原典であるインドのサンスクリット語でのタイトルは『プラジュニャーパーラミターフリダヤ』と言います。

ここでは、般若心経の意味や読み方、基礎知識などについて詳しく解説します。

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般若心経(はんにゃしんぎょう)とは?

『般若心経』は正しくは『般若波羅蜜多心経』と言います。

「般若波羅蜜多」について説く経典は多くあり、それらを総称して般若経典と呼びます。般若経典は紀元前後から作られ始め12世紀頃まで作られました。『般若心経』はその中のひとつで、般若経典の神髄を短くまとめたとする経典です。

西遊記に出てくる三蔵法師として有名な玄奘(げんじょう、げんぞう)がインドから中国に持ち帰った「大般若経」が原書とされています。三蔵法師はサンスクリット語で書かれていた大般若心経を漢語に訳し、600巻ほどにしたためました。

そして、その600巻のエッセンスをわずか300字弱で表現しているのが般若心経です。般若心経には仏教の真髄となる教えが凝縮しています。

般若心経とは、正しくは般若波羅蜜多心経と言います。

『般若心経』が書かれた起源

『般若心経』がいつどこで書かれたはっきりしていませんが、インドで観音信仰が広がり、仏教が密教化していった5-6世紀頃ではないかと推測されています。

4-5世紀に生きた鳩摩羅什によるとされる漢訳本があるため、もっと早く成立していたと思われていましたが、最近の研究では羅什訳は後の時代の偽作の可能性が強く、『般若心経』の成立が確実に確認できるのは7世紀初頭頃になってからです。

『般若心経』には、玄奘訳のように観音菩薩の説法に当たる本文だけからなる「小本」と、本文の前後に物語の基本的な設定に当たる序文やエピローグを含んだ「大本」の2つの系列があります。

歴史的には、最初に般若経典から神髄だけを抽出した「小本」が作られて、後に経典として体裁の整った「大本」が 作られたようです。

般若心経の全文(読み仮名つき)と漢訳

般若心経の全文と漢訳を紹介します。葬儀で僧侶が唱えるときは、歌うように言葉を伸ばしながら読みます。

宗派によって読み方などが異なる場合があります。正しくは菩提寺のお坊さんに聞いてみてください。

仏説摩訶ぶっせつまか般若波羅蜜多はんにゃはらみた心経しんぎょう

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみったじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう

度一切苦厄どいっさいくやく 舎利子しゃりし 色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう

空即是色くうそくぜしき 受想行識亦復如是じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ 舎利子しゃりし 是諸法空相ぜしょほうくうそう

不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不減ふぞうふげん 是故空中ぜこくうちゅう

無色むしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき 無限耳鼻舌身意むげんにびぜつしんい 無色声香味触法むしきしょうこうみそくほう

無眼界むげんかい 乃至無意識界ないしむいしきかい 無無明亦むむみょうやく 無無明尽むむみょうじん

乃至無老死ないしむろうし 亦無老死尽やくむろうしじん 無苦集滅道むくしゅうめつどう 無智亦無得むちやくむとく

以無所得故いむしょとくこ 菩提薩埵ぼだいさつた 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみったこ

心無罣礙しんむけいげ 無罣礙故むけいげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切顛倒夢想おんりいっさいてんどうむそう

究竟涅槃くうぎょうねはん 三世諸仏さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみったこ

得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみった

是大神呪ぜだいじんしゅ 是大明呪ぜだいみょうしゅ 是無上呪ぜむじょうしゅ 是無等等呪ぜむとうどうしゅ

能除一切苦のうじょいっさいく 真実不虚しんじつふこ 故説般若波羅蜜多呪こせつはんにゃはらみったしゅ

即説呪日そくせつしゅわつ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい  波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい

菩提薩婆訶ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう

般若心経のわかりやすい和訳と意味

上記玄奘訳をもとに、仏教や哲学の専門用語をなるだけ使わずに日常語で意訳しました。観音様と弟子のシャーリプトラの会話劇です。

玄奘訳で欠けている部分の大筋などを「大本(完全版)」やサンスクリット原本で補いました(青字部分)。また、分かりやすくするため説明を付加しています(緑字部分)。

般若心経の簡単な意訳

シャーリプトラ「悟りを得て、この世の苦しみから逃れるにはどうすれば良いでしょうか」

観音さま「この世のあらゆるものには実態がない。つまり本来は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心といったものも存在しないのだ。だから物事に執着したり、ひとつの価値観に捉われてしまう必要はないのだよ」

般若心経の和訳

私はこのように聞いています。お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。

その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされて次のように見極められました。

「人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。

しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだ」と。そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。

お釈迦さまの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。

「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。

「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。

体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。

これは体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです(つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません)。

シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。汚れているとか、清らかであるということもありません。迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。

このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。目に映る世界から、心の世界まですべてありません(つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません)。

迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません(つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません)。

苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません(つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません)。知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。

このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。心に妨げがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。
過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。

ですから知らないといけません。“智慧の完成”は大いなる真言、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除き(取り除く真言であり)、偽りがないので確実に効果があります。さあ、“智慧の完成”の真言はこうです。

「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ)

シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」

この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。

以上で“智慧の完成”の神髄の教えを終わります。

般若心経の意味

般若波羅蜜多の意味は智慧の完成、完全なる智慧という意味です。

「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」「完全なる智慧」という意味です。般若心経でいう智慧は、世の中の在り方や現象の深い知識のことです。

「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです。大乗仏教では修めるべき六つの修行・徳目を「六波羅蜜多」と言い ますが、その中の最後の最も重要なものが「般若波羅蜜多」です。

「心」と訳されている「フリダヤ」は、直訳すると「心臓」ですが「神髄」という意味で使われます。つまり「般若心経」とは、「般若波羅蜜多の神髄」であると共に「般若経典の神髄」という意味です。

「フリダヤ」は「真言」という意味でも使われるので、「般若波羅蜜多の真言」という意味だと解釈する説もありますが、結局はどちらでも同じです。なぜなら、『般若心経』の中に「般若波羅蜜多は大いなる真言である」と書いてあり、『般若心経』の主張は「般若波羅蜜多の神髄は真言である」ということだからで す。

『般若心経』は「般若波羅蜜多」の修行方法を説いており、文章の流れからして、明らかに真言を伝授することを核心としています。

お釈迦様の生きておられた当時の多くのインドの宗教・思想では、禁欲・苦行や無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱ができると考えていたのですが、お釈迦様は、あるがままを観察する瞑想で得られる智慧によって、欲望や執着の原因を理解してそれをなくすことで解脱できると考えました。

仏教では何かに集中し、一体化して心を静める瞑想を「止(シャマタ、サマタ)」、何かを観察し、分析する瞑想を「観(ヴィパッシュャナー、ヴィパッサナー)」と呼びます。「六波羅蜜多」の5番目の「禅波羅蜜多」が「止」に、6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当します。

観自在菩薩(観音さま)と長老シャーリプトラ(弟子)

『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。観自在菩薩はその名前が示している通り、「観」の瞑想に秀でているとも解釈できる大乗仏教の菩薩で、一方シャーリプトラは小乗仏教の智慧を象徴すると考えられる人物です。

仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」「律」「論」に分類されます。原則としてお釈迦様の説法を記録した「経」に対して、お釈迦様の教えを解釈し、体系化したものが「論」です。

小乗仏教の各宗派はそれぞれに「論」を作りましたが、シャーリプトラがお釈迦様の教えを解釈してまとめたことが、「論」の始ま りとも言われています。

「観」の瞑想では、どのように集中するかということと、どうような教説に即して観察・分析し智慧を得るかということが問題になります。以下にこの2つを説明しましょう。

般若心経で重要な「空」の思想とは

般若心経の中で重要な概念は、空の思想です。空とは「実態のない」ことを指しています。

大乗仏教と小乗仏教

仏教は、大別して小乗仏教大乗仏教に分けられます。般若心経の考え方は、大乗仏教に属します。

小乗仏教は、仏教の修行をしている人のみが悟りの境地に辿り着くのに対し、大乗仏教は仏教の修行をしている人、してない人も全ての人が悟りの境地に辿り着くための教えです。

空の思想には個別の物事に捉われない、執着しないという考え方は、すべての人が悟りの境地にいたれるとされています。

すべての物事は変化していく

先程述べたように「空」は「からっぽ」ではなく、「実体がない(定まった形がない)」という意味を表しています。

般若心経では「全ての物事は変化し続ける」ことを前提として「変化し続けたとしても物事の本質(核)が存在することは変わらない」と伝えています。

たとえば「老いて見た目や考える能力が低下しても、周りからの評価が変わったとしても、私は私である」という考え方です。

言い換えれば、変化という現象に捉われに、本質に目を向けなさいという教えです。

世の中の価値観に囚われない

「空」の思想である「実体がない(定まった形がない)」とは、またひとつの物事に執着したり、与えられた価値観に捉われる必要はないことも説いています。

たとえば宝石を美しいと思うのは、始めから美しいと定められたものではなく、人間が勝手に美しいと決めているだけであり、またその美しいかどうかを感じる心もそれぞれということです。

般若波羅蜜多の智慧は空を理解する智慧である。

般若心経の「真言」の修行とは

般若心経の後半では、「真言(しんごん・呪文・マントラ)」を称えて紹介しています。

「真言(しんごん)」とは、「真実のことばでお釈迦様の真理を説き、その徳を称える短いお経」です。梵語(サンスクリット語)をそのまま音写したもので、真言は短いお経を言い、長いものは陀羅尼(だらに)と呼びます。

真言宗」や「真言陀羅尼宗」は多くの真言や陀羅尼を唱えるのでそう呼ばれています。

小乗仏教では「アビダルマ論」に沿って観の瞑想を行うのに対し、般若心経では空の思想に沿って観の瞑想を行います。

真言の意味

「真言」は、それをただ唱えれば何かがかなえられるという魔法の言葉ではありません。

本来、「真言」は経典や 仏の智慧を心の中に呼び起こして保持するための言葉です。「真言」を唱える瞑想の中で、集中力の高まった直観的な智慧の体験を何度も経験していて初めて、「真言」を唱えることが条件反射的に智慧の体験を導くのです。

一般に「真言」の内容は、教説を凝縮した象徴的な言葉であったり、祈願や帰依の言葉ですが、「真言」は日常の言葉とは異なっていることが望ましく、言葉の意味よりも響きが重要とされます。

つまり、 『般若心経』の「真言」は「般若波羅蜜多」の智慧に呼びかけるものであり、修行の目標そのものを意味しています。もともと「真言」というものは智慧を導び き、智慧に等しいものですから、 『般若心経』の「真言」は「真言」そのものであり智慧そのものだと言えます。

そして、過去にも菩薩達がこの「真言」を唱えた結果、実際に智慧を完成させて 悟りを得て目標を達したのだから、この「真言」はその言葉の内容を実現する力がある真実のものであるということになります。ですから、「般若波羅蜜多」の 神髄は「真言」であり、「般若波羅蜜多」=「真言」であるというのが 『般若心経』の主張なのです。

葬儀・法要での般若心経の役割

般若心経はお葬式や法要の場で宗教者に唱えられるものです般若心経の役割について見ていきましょう。

葬儀で般若心経を唱えるタイミング

葬儀での読経の目的は、故人を思い祈祷することです。祈祷とは、僧侶がお釈迦さまに故人へのご加護を祈り、安らかな旅立ちを願うことです。

通夜、葬儀・告別式で読まれるタイミングはいくつかありますが、納棺前の枕経、通夜、火葬場などの場が多いようです。ただし、唱えるタイミングは、宗派や僧侶の考え方によって異なる場合があります。

宗派によっては法華経、華厳経などの他のお経と組み合わせることあります。般若心経を唱えるのは一回のみということも。

法要での般若心経の役割

初七日や四十九日といった法要でも、般若心経などのお経を読経します。ただし、お葬式での読経とは意味合いが異なります。

葬儀での読経は故人の冥福を祈るのに対し、法要の読経は、お経を唱えることで得られる自分の「徳」を、故人へ回し向ける「回向(えこう)」の考えに基づき行われます。

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