目次
遺影は190インチの巨大モニター
「俺が死んだら葬式はとことん盛大にやってくれ」という故人の遺志を尊重したというお別れの会。式場の前面に飾られた白と青を基調とした生花祭壇は、「何色にも染まれる白、どんな形にもなれる水のような青や水色を使用し、名バイプレイヤーとしての俳優「左とん平」をイメージ」したといいます。 高さ320センチ、奥行き360センチ、幅1,440センチの大きさ。作成にかかった時間は10時間です。使用した花は全部で6,570本です。 中央の遺影は190インチのモニター。これほど大きなモニターを使用するのは青山葬儀所では初の試みです。祭壇左右を飾る「友」と「笑」
祭壇向かって左には「友」、右には「笑」と、左とん平さんを象徴する言葉が書かれた暖簾(のれん)が飾られています。祭壇に使用した花
ユリ:20本 トルコキキョウ:2,000本 SPデルフィニウム:400本 デルフィニウムジャイアント50本 SPマム3,200本 小菊500本 葉物400枚 合計:6,570本スケールの大きな遺書
お別れの会は開式に先立ち、左とん平さんの生前の作品を15分にまとめて放映。在りし日の姿が偲ばれます。 その中で、左とん平さんが2008年、テレビ番組の中で遺書『棺桶からのメッセージ』を読み上げる姿もありました。 冒頭、「俺が死んだら葬式はとことん盛大にやってくれ」という言葉で始まるこの遺書、『棺桶からのメッセージ』から、お葬式の希望の部分を抜粋すると以下の通りです。 ・祭壇は上げ底でもいいから、とにかく大きく ・遺影はできるだけ二枚目のやつを ・バックミュージックにシナトラの『ニューヨーク・ニューヨーク』 ・霊柩車はキャデラック ・弔問客はエキストラを頼んで5,000人くらい(2008年6月 TBS「大御所ジャパン」より)
そうしたら、「笑って死んでいけるよ」と語っています。左とん平お別れの会 式次第
一. 生前史放映 一. 発起人・御遺族紹介 一. 開式 一. 黙祷 一. お別れの言葉 一. 弔電 一. 謝辞 一. 指名献花 一. 参列者献花 一. 閉式弔辞
発起人代表の里見浩太朗さん、同じく発起人の加藤茶さん、そしてコロッケさんが、左とん平さんへ弔辞を奉読しました。里見浩太朗さんの弔辞(全文)
里見浩太朗さんは、「してやられたと思うほど、いい芝居をする」と思い出を語りました。とんちゃん、いま順ちゃんが、「こうちゃん」「師匠」って呼び合ってるって言いましたけど、俺は師匠なんて言ったことは一度もない。いつも「とんちゃん」。でも、とんちゃん、こんなに早くお別れの言葉って夢にも思ってなかったよ。
いろいろ、いろいろ本当に言いたいことたくさんあるんだけども、ちょっと、思い出を言わしてもらうよ。
とんちゃん、去年の6月の18日に、とんちゃんの傘寿の会をやろうって言って、仲間で新橋の第一ホテルを予約したんです。とんちゃんも知ってるよ。でも、その前にとんちゃんは、ホテルに行かずに病院に行っちゃった。あの、心筋梗塞ということなんで、2、3週間で帰ってくるかと、そう思って、ホテルの予約はそのままにしておいた。
でも、とんちゃんは帰ってこなかった。
ぼくは、とんちゃんの入院している間もどうしてもとんちゃんの顔を見たくて、マネージャーの嶋田さんに何度も何度も、本当にしつこいって言われるほど、電話したけれども、もうちょっともうちょっとということで、本当に何度も何度も電話したんだよ。
でも、とんちゃんの笑顔はとうとう見れなかった。
あの、第一ホテルの予約料はキャンセルしたから。
お金は払っておいたから。大丈夫だよ。
3月の2日の日にとんちゃんが家に帰ってきたということを聞いたんで、会いに行ったよね。2階の部屋で寝てた。よく見ると、なんだか寝巻きじゃなくて、ゴルフウェアを着て、ベストも着てた。とんちゃんの寝顔から寝顔がパッと目が開いて、「おう、こうちゃん、もう一度行こうか」ってそんな声が聞こえてくるような顔をしてました。
ゴルフのときは、ときどきお宅へ向かいに行ったよね。だいたい時間より出てくるのが遅いんだけど、でも、何回かゴルフなのに朝の8時頃麻雀屋に向かいに行ったこともあったよね。
なんでゴルフ行くときに朝の8時に麻雀屋にいるんだよ。
でも、そんなときにかぎって、とんちゃん、スコアがいいんだ。本当に。
でも、いまVTRで見たように、とんちゃんいい仕事をたくさんしてたんだね。ぼくもTBSの『江戸を斬る』で一緒にレギュラーでやっていたけど、いつもセットでは何を考えてんだかわからない、セリフも覚えてるかどうかわかんないような顔をしていたけれども、監督が「カット!」と言うと、「してやられた」って思うような、いつもそんないい芝居を見せてくれました。
とんちゃん、ゴルフも好きだったし、麻雀も好きだったんだけども、ゴルフと麻雀と一緒にやったのが悪かったのかもしれないね。
どっちかひとつにすればよかったのに。
でも、ひょっとしたら、仕事よりそっちのほうが好きだったのかもしれない。それでいっぱい、友だちができていたのかもしれないね。
いや、お疲れさまでした。ゆっくり休んでください。ま、今日は発起人代表。大勢の立派な友だちがいらっしゃるのに、俳優仲間でぼくがひとつ年上だから、ぼくが発起人代表ということになりました。
本当にもう一度仕事をしたかった。
もう一度遊びをしたかった。
しょうがないよね。
本当にお疲れさま。ぼくはもうちょっと仕事するよ。
平成30年4月3日。4月3日です、今日。
里見浩太朗。
加藤茶さんの弔辞(全文)
『8時だョ!全員集合』が終わって、「ドリフターズの仕事が一段落して、芝居にさそってくれたのも左とん平さん」とお別れの言葉を述べる加藤茶さん。「舞台での演技をやさしく、時に厳しく教えてくれました。そこが長さんと違うところ」と笑いを誘いました。とんちゃん、もう思い出がたくさんあるんで、いろいろ書いてきました。
とんちゃんと出会って50年。兄弟のように付き合ってくれた。小野ヤスシさんととんちゃんとぼくの3人は、何をやるのも一緒でした。
でも、捕まったのはとんちゃんだけでした。
そして、TBSの全員集合が終わってドリフターズ5人の仕事が終わったときに、「加藤、芝居やらないか? 舞台っておもしろいぞ」って誘ってくれたのも、とんちゃんだったよね。
舞台での演技を優しく、ときには厳しく、いろいろ教えてくれました。
そこが長さんと違うとこです。
9ヵ月前に入院したときは、「あ、1週間かそこらで出てくるんじゃないかな」と思ってたんです。でも、9ヵ月の間、がんばったんだよね。生きようとがんばってくれた。もう一度カムバックして、舞台に立ちたい。そう思ってたんだよね。
とんちゃん、寂しくて仕方がないよ。でももういいよ、ゆっくり休んでください。お疲れさまでした。
とんちゃん、本当にありがとうございました。
平成30年4月3日、加藤茶。
コロッケさんの弔辞(全文)
舞台をふらっと観に来た左とん平さんに「モノマネはいいけど、芝居はダメだな」と言われたというコロッケさん。とん平さんから、モノマネにも間が大切ということを学んだと言います。とん平師匠、もっと話をしたかったです。もっとたくさんいろんなこと教わりたかったです。
自分が初めて舞台で、ちょうど中日劇場で座長をやらしていただいたときに、つながりも何もないのにフラッと見に来ていただき、終わったあとに「モノマネはいいけど、芝居はだめだな」と言われました。
あの一言が本当に忘れられませんし、自分でもできていなかったことも本当にわかっていましたので、そういうことを言っていただいたことが、本当にありがたく思っております。
それからとん平師匠と一緒に仕事をしたくて、何回かお願いをして、なかなかそれが実らなくて、そして、舞台でご一緒させていただくようになってからは、一つひとつの仕草、喜劇というものに対するとん平師匠の思いというものがですね、ひしひしと伝わってきて、それを自分は目の前で稽古を見てて、ずっと見させていただいて、どうにか盗めないか、盗めないか、いまだに試行錯誤しております。
明治座のときに、宮本武蔵の役でとん平師匠が出られて、花道歩いてこられて立ち止まっただけで、明治座が大爆笑になる。本当に目の当たりですごさを見せつけられて、自分も少しでも近づけるようにって言うふうに、一生懸命いまもがんばっております。
師匠に麻雀とゴルフはやらないのかと言われまして、「すみません、両方ともやりません」と言いましたら、たった一言、「あっそ」と言われて後ろを向かれたのは、いまでも忘れません。
何かこうプライベートでもっともっといろんな話をしたかったんですが、でも、自分はそのお芝居のなかに対する師匠のいろんなこう、動きというか立ち止まるおもしろさ、障子をひとつ閉めるのでも、障子の前で一回立ち止まってから開けようとして、それをやめて後ろを向いて、結局開けない。
なんでもない、やろうとしてもなかなか難しいものなんですよね。
でも自分は、モノマネをさせていただいておりますが、師匠のいろんな話を聞いたときに、ちゃんと芝居は喜劇をやらさせていただきたいというふうに、それからいろんなことを教えていただいて、自分は師匠の芸にはまだまだ及びませんけども、でも一生懸命師匠の間を頭の中で思い出して、師匠がいたからこういうことができたんだということも皆さんに伝えさしていただきたいと思います。
「私がやるモノマネは何が好きですか?」って聞いたとき、「淡谷のり子さん」と言われました。
一言だけ。「淡谷のり子です」。
師匠の一言。「いまいちだな」って。
私の間が悪かったんだと思います。モノマネやるんでも、間が大切だということを師匠に教わりました。
これからも師匠をいろいろ思い出して、一生懸命、自分なりにですが、継承させていただきたいと思ってます。
とん平師匠、ゆっくり休んでください。これからよかったら見ててください。
平成30年4月3日、コロッケ。
浜木綿子さんからのメッセージ(全文)
また、今日は腰を痛めていたため参列できなかった浜木綿子さんからも、お別れのメッセージを録音したテープが届きました。左とん平さんを「芸能界での私の夫」という浜木綿子さん。その別れを惜しみました。とんちゃん、とんちゃん、もう浜ちゃん何って声は返ってきません。
寂しいです。
あちらでもこんなはずじゃなかったのにと思ってるでしょ、いま。だって、まだまだ続けるって言ってたんだから。
本当に残念。
去年の暮れね、お見舞いに伺ったとき、奥さまから「ここんところ反応がないのよ」って仰られて、あたしは「とんちゃんとんちゃん、起きなさい、舞台がはじまるわよ、浜ちゃんよ、とんちゃん」呼び続けたら、あなた少し起き上がったのに、口曲げて、でもまたすぐ寝てしまった。
あのときあなた何を思ったの? 何を? 早く舞台に立ちたいって言いたかったんでしょ。
あのときのあなたは痩せてもいないし手も足もあたたかくて、私は奇跡が起きるんじゃないかと信じてました。
でも、力尽きちゃったのね。本当に悔しい。とんちゃんと二人の舞台は幕が下りました。
多くのお客さまに笑っていただいたのよね。ご支援もいただいた。本当に嬉しかったわね。
いまここで2人でお礼を言いましょう。
ありがとうございました。
喜劇をつくるのに、戦いましたねあなたと。あなたとは戦友、朋友です。とんちゃんは身体がすごく硬いのに、舞台ではまるでくらげのように柔らかに動き回って、みんなを和らげてくれましたね、緊張を。
あなた不思議な才能を持った方。あの姿は忘れません。いまも目を細めているあなたは、目はもともと細いんだけど、あたしを見て笑ってる。しっかり目に焼き付けておきますね。
34歳のときに初めて出会って、この歳になるまで何十年、舞台、テレビでご一緒でしたね。
あなたと出会えて幸せでした。
ありがとう。
心からお礼を言いますよ。
でもね、とんちゃん、本当に悲しい。寂しい。つらい。本当につらいです。また会えるものなら会いたい。
今日はたくさんとんちゃんに新たなご友人がいらしてるものね。
順ちゃん、加トちゃん、あなたお友達が多かったから。幸せね。よかったわね。
私は今日、私の不注意でちょっと腰を痛めて、伺えません。
こんなかたちでごあいさつするのは本当に申し訳ないと思っております。許してください。また皆さま、お許しください。お詫びいたします。
でもここの、いま前に写真があります。
昨年の4月、博多公演でキャンペーンに博多に行ったとき、2人で行きましたね。あのときの写真があります。あなた笑ってる。うん、笑ってる。
はー、さよならは言いません。だってあなたとの思い出は生きています。
とんちゃん、またね。またね。
あなたは芸能界でのあたしの夫。
本当にありがとうございました。ありがとう。ありがとう。
浜ちゃんでしたよ。
回廊を飾ったタペストリー
受付から式場へ向かう回廊には、左とん平さんの写真や似顔絵を描いたタペストリーも飾られました。第二会場の壁一面に飾られた、名優の軌跡
第二会場には左とん平さんのメモリアルコーナーも設置。代表作の台本が展示されたほか、左とん平さんのこれまでの作品がパネルで、壁一面に飾られていました。左とん平さんの戒名
左とん平さんの戒名は「台光院友誉通勝居士(だいこういん ゆうよ つうしょう こじ)」。 その趣意は、次の通りです。 「誉れ高き朋友とすぐれた人徳の基(もとい)映画、舞台、コメディ、歌手などに至る天性のエンターティナーを長じた御功績は蓮の台(うてな)に光り輝き、人々の御心に弘(ひろ)く通じ、偉勲を遺されます尊き佛、茲に有り。」左とん平さんのお別れの会に参列した方々
お別れの会、発起人代表を務めた里見浩太朗さん
発起人を務めた、加藤茶さん
音無美紀子さん、多岐川裕美さん、秋野暢子さん
堺正章さん
笹野高史さん
水谷豊さん、壇れいさん
高木ブーさん、仲本工事さん
北大路欣也さん
せんだみつおさん、松崎しげるさん
コロッケさん
発起人のひとり。今回司会も務めた井上順さん
(取材・執筆/小林憲行)