市原悦子さんの告別式、東京・青山葬儀所で。想い出の映像で名演技を振り返る

2019年1月12日に心不全のため亡くなった女優・市原悦子さん(享年82)の告別式が、1月18日に東京・青山葬儀所で行われました。
市原さんの家族と所属事務所の合同葬儀として行われ、葬儀委員長は所属事務所・ワンダー・プロダクションの代表取締役社長である熊野勝弘氏が務めました。弔辞を務めたのは、2003年の市原さん初主演映画『蕨野行』の監督である恩地日出夫さん。

会場者には関係者、一般参列者あわせて約500人が集まり、名女優との最後の別れを惜しみました。

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「森の中で眠っているようなイメージ」を再現した祭壇

市原悦子さん合同葬_祭壇生前、緑が好きだった市原さん。モンステラなどの10数種類の観葉植物で囲まれた祭壇は、緑でいっぱいになりました。「森の中で眠っているようなイメージ」を再現したといいます。
淡い緑色の棺には、台本を読むときに使っていた眼鏡などの私物や、市原さんの写真集と著書が4冊ずつ納められました。

無宗教のお別れのため、戒名はありません。

想い出の映像で市原さんの女優人生を振り返る

告別式の会場では祭壇の脇にモニターが設置され、市原さんが出演した作品の映像が流れました。
テレビ朝日系『家政婦は見た!』シリーズでは、決めぜりふ「ごめんくださいませ~」を絶叫する場面も。
市原さんの演技の凄みと抜群のコメディセンスをあらためて感じさせられました。

市原悦子さんへの弔辞

市原悦子さんへのお別れにあたって、市原悦子さん初主演映画『蕨野行』の監督、恩地日出夫さんが弔辞を述べました。恩地監督は市原悦子さんをはじめて見た時の想い出を語り「いま考えるとけっこう失礼なことを言ってたんだな」とおっしゃっていました。

恩地日出夫さんの弔辞(全文)

市原さん、御羽書に墨で書いた文章を読むのはあなたとの別れにふさわしくないと思うので、今日はなんにも持ってきませんでした。

思い出すと、初めて市原悦子と会ったというか見たのは、1957年封切りの『雪国』という映画になります。池部良と岸恵子の主演でした。それの衣装合わせで悦ちゃんが衣装室にいるのを助監督になりたての僕が見たのがはじまりでした。
太った芸者というワンシーンだけの出番があった、それが監督の作品です。助監督が一生懸命太らせるんで、体に着物の下にタオルをまいたり、いろんなことをして衣装合わせをしていました。僕は撮影所に入って1年、原節子さんをはじめとしての美人女優ばっかりの東宝撮影所にいささか食傷ぎみだったので、市原さんの衣装合わせを見ながら、「ああ、こういう人も女優さんでいるんだ」と思いました。
その話を後年すると、「どうせ私は不美人ですよ」って笑ってたけど、いま考えるとけっこう失礼なことを言ってたんだなと思います。

でも、その衣装合わせからいま考えてみると、60年という年月が経っています。その間にずいぶんいろんな仕事をたくさんたくさんさせてもらいました。
とくに新人の役者を主役で使いたいと思ったときに、いつも相手役に市原さんがいてくれました。おかげでなんとかなりました。
たとえば、泉谷しげるという奴が『吉展ちゃん事件』で初めて芝居をしたんですけど、そのときも、相手に市原さんが決まっていなければ、彼を使う勇気がなかったと思います。
最近では、『蕨野行』で清水美那という本当にまったくの素人を主役にするにあたって、やっぱり相手に市原さんがいてくれたからできたと思います。
いつも悦ちゃんがなんとかしてくれるだろう、そういった甘ったれた気持ちで仕事をしてこれた。

ずいぶん長い間だったけど、ドキュメンタリーのキャスターっていうのかな、ナレーション読んだり自分で歩いたりして、連作の「ふるさと」というのを何本かやりました。そうかと思うと、テレビドラマもやったし、映画もやったし、本当に長い間付き合ってくれてありがとうございました。こうやって深く笑っている写真を見ていると、もう二度と一緒に仕事はできないのかなとは思いますが、これもお互い人生だと思います。長い間ありがとうございました。

市原悦子さん告別式 式次第

11:00 告別式 開式
司会挨拶
映像
11:10 弔辞(恩地日出夫様)
11:20 弔電の紹介
献花
12:30 出棺準備
12:40 葬儀長挨拶
13:00 出棺

市原悦子さん合同葬_パネル

市原悦子さん合同葬_青山葬儀所

(取材/文:八木麻里恵)

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