遺された心

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今は亡き父へ

祖母ちゃんが父さんのことを話す時、よく「バカ息子」「クソ真面目」などと、あまり嬉しくない言葉をくっ付けてましたが、私達もなるほどと納得していました。

戦時中、五歳前後の私の思い出といえば、米粒の殆ど無い、木の葉が入った青臭い粥。他家の畑で穂を取って噛んだほんのり甘い麦の粒。赤ん坊の妹に配給される練乳の缶に箸を突っ込み、こっそり一舐めした罪深い甘さ。どれも食べ物にまつわるものばかり。

その頃、ヤミで食糧を手に入れる人もいる中、父さんは、教員がヤミの物を買うなど許されないと、断固、母さんに禁じたそうですね。

終戦後、物乞いや押し売りの人がよく来ましたが、父さんは必ず、食べ物をあげたり、家族の誰も着ないような洋服を買ってあげたりしていましたよね。私が運動靴をせがんだら、「そんな金は我家には無い」と一喝した人が……。

極め付きは、雨で寝る所が無いという人を、我家の客布団で泊めた事件。家族中を呆れさせました。翌日、母さんと文句たらたら布団カバーを洗濯しましたよ。

そんな父さんが退職後、それまで書き溜めたものを一冊の本にされました。それを読んだ時の私の衝撃は、それまで得た沢山の本の感動とは全く違う次元のものでした。父さんの心、魂そのものだったからです。(戦争中、お産のため、母と私は実家へ。父は独り転任地に残った)

 米無しの自炊生活おのが身を

 実験台に立たしめたつもり

 迷うては迷うては生きて在るわれに

 夜なかりせば迷わざらんに

練乳を私に盗み舐めされ、栄養失調の身に、私の病気まで移され、九ヵ月で旅立った妹。

亡くなった後、父さん達は殆ど触れることがなかったから、私は、諦めがついているのだと思っていました。

そんなこと、あり得なかったんですね。何首もの歌に、父さんの吐き出した慟哭を見ました。

 愚痴と悔は詔子の旅を汚すものと

 思えど思えど嗚咽となりて

こんなにも鮮明に「心」を遺された父上を、尊敬し誇りに思います。それに対し、感謝の気持ちも素直に伝えられなかった私。自分が情けなく、悔いのみが残っております。でもでも、父上は無言で許して下さるのでしょうね。

いつまでもバカになれない娘より

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」より

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」は、父母、祖父母、先生、友人、近所の人など。“あの人”とかつて一緒にいた時に言えなかったこと、想い出や、“あの人”が亡くなった後に伝えたくなったこと、感謝の気持ちなどを綴ったお手紙です。

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