トキタさんの場所

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今は亡き友へ

トキタさん、お久しぶりです。妹の産んだ娘はもうすぐ一歳になろうとしています。そう、あの頃、トキタさんがいつも同じ場所で抱えていた、まるまる太った赤ん坊にそっくりな女の子です。

四十年前の冬、七歳の私が小学校から帰ると、家の玄関の前にトキタさんが立っていました。そして、そのトキタさんの腕にしっかりと抱かれて、部屋で眠っているはずの妹が頬を真っ赤にして泣いていました。薄着で、鼻水をたらしながら トキタさんが妹を抱いている、赤ん坊をあやしている。トキタさんは、いつも同じ場所に立っていました。まるでそこから一歩も動いてはいけないと誰かに言われたように、正確にそこに立っていました。それはとても不思議な光景で、今でも私の記憶の奥底に深く刻み込まれています。

醤油醸造工場だった私の家にトキタさんが奉公に来たのは、戦後まもない頃だったそうですね。祖父が亡くなってからは父が造った醤油を、一本、一本、一升瓶に詰め、瓶にレッテルを糊で貼り、王冠をして、箱に入れる。そして、それをリヤカーに積んで配達する。雨の日も、雪の日も、ご近所はもちろん、十キロ、二十キロ離れた得意先までリヤカーを引っ張って配達する。そして、回収してきた瓶を手で洗う。猛暑の夏も、厳寒の冬も。それが字を書くことも、読むことも、車の運転もできないトキタさんの仕事であり、毎日でしたね。 トキタさんは、人生のほとんどの時間を、家族ではない私達と過ごしました。配達の途中で、後ろから来た車にリヤカーごとはねとばされるまで。

トキタさんの顔も思い出せなくなるくらい大人になったある日、あのときトキタさんが立っていた同じ場所に私は立っていました。すると、大通りから一台の車がこちらに向かってくるのが見えました。そのときわかったのです。トキタさんがここに立っていた理由が。 子供の頃の私は、実は最期まで知的障害者のトキタさんのことを心のどこかで苦手だと避けていました。けれどトキタさんは。トキタさんが立っていた場所、トキタさんがいつも立っていた場所、そう、その場所は、家を守りながら、妹を守りながら、帰ってくる車を、私達家族を、いちばん最初に見つけることのできる、トキタさんの場所だったのですね。

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」より

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」は、父母、祖父母、先生、友人、近所の人など。“あの人”とかつて一緒にいた時に言えなかったこと、想い出や、“あの人”が亡くなった後に伝えたくなったこと、感謝の気持ちなどを綴ったお手紙です。

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