【ご遺族インタビュー】悲しみの大きさは同じでも、その中身は夫婦でも違うことを痛感しました

いい葬儀【記事監修】
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記事監修いい葬儀

Mさんのお嬢さんは中学1年生のときに希少がんを発症、2年3ヵ月の闘病の末、死去されました。闘病のこと、在宅でのお看取りのこと、その後3年にわたるグリーフワーク(死別による悲嘆の感情を受け入れ、悲嘆と共存するための心の努力)のことについて、お聞きしました。

闘病に気丈に耐えた娘

- お嬢さんの闘病の経緯はどのようだったのでしょうか?

娘は中学1年生の夏休みに病気がわかり、すぐに手術を行いました。演劇部に入っていたのですが、部活の帰りに腹部に激痛がはしりました。その時私は義父が倒れたため、夫の実家に行っていました。あの時そばにいてあげられなかったことを悔やんでいます。

3件病院に行ったのですが原因がわからず、墨東病院の婦人科で診察してもらい、腫瘍が分かりました。8月の末に手術をした後、6~7週間という異例の遅さで腫瘍が悪性ということが判明しました。ちょうど義父の通夜の時に、「悪性」という連絡があり、半年間の抗がん剤治療に入りました。翌年4月のPET検査の結果が良好だったのですが、6月なかばに再発して再手術、11月に再発して再々手術、さらに翌年の3月に再発して4度目の手術をしましたが、これが最後の手術となりました。

体調を見ながら通学もしましたが、学校生活に馴染める状態ではなく、結局保健室登校になったことがかわいそうでした。「皆が命にきちんと向き合えるようになるのなら、喜んで利用されるのに」と娘が言っていたことを思い出します。多感な時期、闘病中であることで、周囲もどのように接してよいのかわからなかったようです。腫れ物に触るように扱われ、「壁になったような気分」と表現していました。

体調の良い日に、友だちと遊ぶ約束をしたのですが、ドタキャンされたこともありました。でも、SNSの投稿で、急に用事ができて遊べなくなったはずの友人が他の人と遊んでいるのがわかってしまったのです。辛い思いもしたようです。でも、文句ひとつ言わずに、最後までずっと戦っていた強い子でした。

- お嬢さんを支えてくれたお友達もたくさんいらっしゃったそうですね。

亡くなった日にも、夜遅くまでお見舞いにきてくれていた小学校のころからの親友や幼馴染のように育った次男の親友など、私自身も支えられた方たちがたくさんいます。

次男の親友は8歳年上で、娘は彼のことを兄のように慕っていました。仲が良く、将来結婚するかもねと周囲に言われていました。彼が留学する時には、「これがお別れになるだろう」という予感がありましたので、主治医は娘が空港へ見送りに行けるよう必死にがんばってくださいました。恋らしい恋もない中で、ある意味恋愛のような気持ちを経験できたことは、母親としても救いになっています。

また、楽しいことはできるだけ経験させてあげたいと、テーマパークは年パスを買っていましたし、大好きなアイドルのコンサートなど楽しめる時間は最大限とっていました。

- 気丈に闘病されたということですが。

4回のどのオペの前も、自分で歩いて「じゃあね。行ってくる」と手を振りながら、手術室に入っていきました。4回目のときには、「何かあったら、パパ、ママをお願いね。切るのはこれが最後。もう無理だと思う」とまで言って。

登校した時は、私が学校の外で待機していましたが、送迎されていることをほかの生徒たちに知られるのを嫌がり、「絶対に、わからないところで待っていて」と言われました。また、車椅子で買い物に行った時、娘が喜びそうな商品の前に若い人たちが固まってお話をしていたことがあります。私が場所をあけてくれるように頼もうとすると、「私は待てるから。車椅子だからって特別扱いはしないで」と言っていました。

最初の手術から1年の間に急速に大人びて、「病気のある自分は、普通に就職することも、結婚することもできないだろう」と考えるようになったようです。そこで、FX投資の勉強を始め、15歳になって自分で投資を始められる日を楽しみにしていました。

- しっかりと、将来のことまで考えいていたのですね。

親としては、娘が喜ぶことは何でもしてあげたいのです。

大好きなアーティストのコンサートチケットは、正規の値段では6,000円のものが、ネットでは6万~7万円で売られていました。それでも私は夫に黙ってチケットを買い続けました。4回目の手術後に大病院を離れてからは、免疫チェックポイント阻害薬を自由診療で投与していましたので、現金化できるものは全て売りました。でも娘も気が付いたんですね。闘病にはお金が必要ということに。15歳のお誕生日の少し前に「50万円ちょうだい」と言いましたので、「いいよ。なんで?」と聞いたら将来働けないかもしれないからと、FXの勉強を始めていたというのです。

13歳、14歳で子どもが産めない体になりました。手術前に卵子の凍結も考えたのですが、治療が遅れるから断念しました。でも、「IPS細胞があるから、これから子どもは産めるようになるかもしれない」と言っていました。そして、それにもきっとお金がかかるから、貯めておかなくてはと。養子についても調べていたようです。「きっと神様は縁のある子をくれると思う。きっと見つけてみせる」と。でも「特別養子縁組ができるかな?」と心配もしていました。

娘は、将来はカウンセラーになりたいと言っていました。中学は卒業できなかったけれど、高校に行く準備はしていました。

死の受け入れと、存在を感じる気持ちが混在している

- 在宅でお看取りをされたとうかがいました。

3月の手術後、一度は自由診療で受けていた免疫チェックポイント阻害薬の効果で、腫瘍の成長が3ヵ月ほど止まったのですが、その後はどんどん大きくなり手術もできなくなりました。

危篤状態に陥る前日、娘はケーキを2口と、たこ焼きを一つ食べることができました。

兄二人と娘がソファで並んでいる姿をみて、私には空気がキラキラ輝いて見えました。「こんなに穏やかな時間はこれが最後だ……」と、私はなんとなく感じていました。その日の深夜から、胃痙攣で強烈な痛みに襲われるようになりました。狂ったように痛がる。痛みは人格をも変えてしまいます。あんなに我慢強い娘が、深夜に看護師さんを呼びたがっていたのに、夜だったので「もう少し待とう」と言ってしまったことが悔やまれます。

そして緩和ケアを行なうことを決めました。家族がいない私だけが看病をしている時間を狙って、麻酔を使い昏睡状態に入りました。強い麻酔ですので、通常は起きられないほどなのですが、最後までトイレには起きてきて、自分で行っていました。

下顎呼吸が4時間ほど続き、臨終の3時間前、「ママ、ママ」と2回呼び、そして家族皆で見守っている中、亡くなりました。

- それからはどんな時間を過ごされたのでしょうか。

3年が経ちますが、秋の気配が始まると、気持ちが落ちていきます。それが毎年あります。

娘を看取った後から、のどにピンポン球がつまっているような違和感を覚えるようになりました。最初、違和感があった時は「咽頭がんかな?」と嬉しかったです。ほっとしました。自ら命を絶つのは娘に対して恥ずかしいけれど、病気で死ぬのであれば赦されると思ったからです。でも、これは自律神経の異常でストレスを抱えている女性には珍しくない症状だそうです。また、蕁麻疹のような皮膚症状も出ました。

今も娘と過ごした家でなんとか暮らしていますが、お風呂には入れなくなりました。闘病中、娘はひとりではお風呂に入れなかったので、一緒に入っていました。でも娘と2人になるとき、いつ「私、死ぬの?」「いつまで生きていられるの?」と聞かれるかと思うと、怖くて仕方がありませんでした。2人きりで裸になっている時間だからこその恐怖。ふたりで湯船に浸かっている時は、「今日こそ聞かれるのではないか」と湯船の中でおびえていました。今も怖くて浴槽には入れないのです。夜の浴室に入ることもできません。毎朝、シャワーを浴びるのが精一杯です。夫からは「風邪をひくよ」と言われますが、娘を看護していたあの時の恐怖は、夫にはわからない、辛くなるタイミングやきっかけは夫婦でも違うと痛感しています。

ベッドで眠ることもできません。

明かりを消して眠ることもできません。

リビングのソファで明かりもテレビもつけたまま、いつの間にか眠ってしまうのを待つような状態です。

- 家族の習慣などは変わりましたか?

納骨はしていないので、お骨はまだ自宅にあります。娘のアクセサリーなどとリビングに置き、娘が描いた絵を飾る額もあつらえて、飾っています。そうしたひとつひとつがレクイエムになって、なんとか普通の生活ができるようになっています。

でも、娘が好きだったレモネードを夏になると作り出すなど、娘を育てているのと同じような日常もまだ続いています。娘にとって兄にあたる2人の息子たちは、特別なことはしていませんが、お土産などはよく買ってきますね。

姿が見えないことを受け入れているから悲しい自分と、でも心の中には存在しているという前提で生きている自分が混在しています。最近は、この矛盾した感情が混在しているから生きていけるのだと思うようにもなっています。

家にいると闘病中の苦しんでいた娘を思い出すので辛いのですが、娘が一番好きだったのも家です。ですから、仕事に逃げていることも多いです。仕事をしている間は、なんとか悲しみから脳を休ませることができるんです。夫もそのようですね。

娘のことを大事に思っているけれど、胸の中に悲しみが溢れすぎると持ちきれない。でも娘への思いをもっと抱えたいと思う自分もいます。そうした心の揺れは、突然始まります。もう、後遺症のようなものを抱えているような状態ですね。

葬儀後に行なった遺作展が転機に

- ご葬儀はどのように進められたのでしょう?

亡くなる直前までのことはよく覚えているのですが、夜中に亡くなってからの記憶はおぼろげです。スタイルの良い子だったのに、腫瘍が大きくなりすぎていたので、取り除き、皆さんにきれいな姿で会っていただけるようにエンバーミングを決めました。さんざんオペをしたのに、亡くなってまで申し訳ないという気持ちもありました。でも本人はそう望んだだろうと思うと、正解だっただろうと思います。

エンバーミングの施術から帰ってきた娘には、11月でしたが、サマードレスを着せました。私が20歳の時に購入したタータンチェック柄のロングドレスで、娘が裾をちょこんと持って着た姿が忘れられないからこのドレスしかない、と夫が決めました。成人式用の振袖も用意してあったので、コンサートに着ていったドレスとともに、棺に納めました。娘が自分で作ったネイルもつけてあげました。

葬儀の祭壇には、娘が好きだった向日葵の花300本を飾り、壁には娘が「これで部屋を埋め尽くしたい」と言っていたウオールフラワーで埋め尽くしました。フランフラン(雑貨店)で購入したのですが、お店に電話して事情を話したところ、店員さんで手分けして、近郊の店舗を回り、翌朝までにかき集めてくださったそうです。

仮通夜、通夜、葬儀・告別式と3日にわたってお別れを行ないました。仮通夜には時間を決めずにお越しいただいたところ、500人ほどが見えました。葬儀はわけがわからないうちに終わってしまいました。

通夜、葬儀は無宗教で行いましたが、葬儀・告別式の読経はしていただきました。夫方の菩提寺のご住職に来ていただくのが筋ですが、私方のご住職は闘病中の娘とも何度も会っていた間柄でしたから、よくご存知の方に読経していただきたいとお願いしたのです。おかげさまで、娘のことをよく知っている方でなければつけられないような戒名をつけてくださいました。 「香雲院凛心日夏信女」です。

- 遺影はお嬢さんが自撮りした写真だそうですね。

亡くなる1年前にカメラマンさんに撮影してもらった写真がありましたが、ウイッグをつけていたので、息子たちがウイッグじゃないほうがいいと、娘の携帯の写真に残っていた自撮りの写真を遺影にしました。向日葵の花を持っている写真は亡くなる2ヵ月前に撮られていました。娘の中では、この頃に受け入れが始まったのではないかと、娘が通っていたアトリエの先生がおっしゃっていました。それまでは、内面から出てくる怒りや悲しみを表現していたそうですが、穏やかな絵を描くようになったことから、そう考えられたそうです。

亡くなる3ヵ月前に娘は、こんな風に言ったことをよく覚えています。

「ママ、私、わかった。お葬式はすごく大事なの。この世に生まれてきた人にしかできないの。だから、その人の生き様を表さないといけないんだよね。だから、お葬式はすごく大切なことなの。簡単にやっちゃだめなの。その人の人生が出なきゃいけないんだよね」。

- お嬢さんが描かれた作品を集めて、遺作展を行なったそうですね。

病気になり、娘は非常に悩み苦しんだのですが、学校へ行くこともままならなかったので、セラピーを兼ねたアートスクールで、メンタルケアのために絵を描かせることにしたのです。スクールのアトリエだけでなく、自宅でも描いていました。

娘が幼い頃から家族でお世話になっていたコーヒー屋さんにギャラリーが併設されているのですが、マスターが闘病中の娘が絵を始めたことを知り、「作品展をやりなよ」と声をかけてくださったんです。それで亡くなる1年前に娘が自分で予約を入れたんですね。でも、病状が重くなり本人が「来年じゃ間に合わないかな」と言って、マスターがもっと早い日程をやりくりして空けてくれました。結局、その5ヵ月前に亡くなり、私もそのことをすっかり忘れていました。

娘が亡くなってから引きこもっていた翌年1月に、夫が「たまには外でコーヒーでも飲もう」と、そのお店に連れ出してくれました。その時マスターに「スケジュールは空けてあるけれど、どうする?」と聞かれたんです。夫はやりたくないと断ったのですが、息子たちに「何を言っているの? 本人がやりたいと言って申し込んでいたのにやらないことは裏切りだ」と猛反対して、開催を決めました。

私はそれこそスーパーに買い物にも行けない状態だったのですが、遺作展の準備を始めました。それが結果的に、仕事復帰のきっかけになったんですね。

3週間の開催期間中、何度も来てくれたお友達もいましたし、お友達やその親御さんからは、私が知らない娘のことも聞けました。

また、遺作展が新聞3、4紙で取り上げられたことで、小児がんのお子さんをもつ親御さんがたくさん来てくださったんです。娘と同じ病気に苦しむ方のご主人から、情報がほしいと連絡がきたこともありました。奥様の病気に悩むなか、ご主人自身も心のバランスを崩されていたのですが、思いを聞くことが支えになっていたかもしれません。ご臨終や葬儀には無事に立ち会えたそうです。

この経験が、「グリーフを支えるのは第三者でもいい、会ったことがない人でもいい。誰かが私を支えてくれるから、私も誰かを支えられる」と学ぶきっかけになりました。

- もう少し詳しくご説明いただけますか?

一つの家族が同じような深さの悲しみや辛さを抱えていても、表れ方はそれぞれです。悲しみの感情の違いは、無限にある色の濃さの違いのようなものだと思うのです。我が家でも次男は妹をかわいがっていたので、夜中に夢で見て冷や汗をかいて飛び起きることが何度もありました。長男は次男よりも距離がある関係でしたが、娘へのお供物のことをとても気にしてケアしています。どちらもグリーフは感じていて、そこには正解や不正解はないのだと思うんです。

ですから、悲しみの色が一段、淡い人が隣の人を支えてあげる関係ができ、その輪ができれば、辛い思いを抱えていても支え合うことができるのではないでしょうか。

また、葬儀はこうした支え合いの輪を作る場になることも感じました。

- そうした考えに至るまでに、辛い思いをなさったのでしょうね。

私は24時間娘を看護する生活が2年半続きましたが、夫は会社にも行っていましたし、一緒に過ごす時間は私よりもずっと少なかった。ですから、何を見て娘のことを思い出し、辛い気持ちを呼び起こすかは、夫婦でも違うんです。悲しみの容積は一緒、でも中身が違うようなものです。でも、夫婦でお互いの辛さがどこで表出するのかわからず、感情がすれ違ったままだったので、お互いの感情がわからずに相手を責めて、傷つけ合いがちになります。

離婚を考えたこともありました。でも、息子の「我が家は、妹がいなかったら家族がばらばらになるのか」という言葉で、私たちは家族でいるための努力をするしかないと気づきました。先にお話ししたように、夫方の菩提寺のご住職にはお話ししていないので、まだ納骨していないんです。そのお骨をどうするのかという問題もあって、「ああそうか、娘のお骨と一緒に入れる環境を努力して整えるしかない」と悟ったんです。

まだ家にいるのは辛くて、夫と二人でいるとどうしても娘のことを思い出してお互いに責めそうになるので、夫とは敢えて休みをずらしてなるべく忙しく動き回っています。それで、お互いを責めないで夫婦で過ごす時間を作るために、2ヵ月に一回一緒に旅行をしています。

車で出かけるときは、エルヴィス・プレスリーを聞くようになりました。娘は音楽が大好きだったので、娘との思い出がよみがえるような曲やアーティストが巷にはあふれています。好きだったアーティストの新曲を聴いたら、娘はどう思うだろうと考えてしまうから、まったく接点のないプレスリーを流して、歌詞の意味などを夫と話す。そんな努力をしています。

祖父母の葬儀はグリーフを経験する貴重な機会

- 今、グリーフワークについて、どんな考えをお持ちですか?

グリーフワークというのは、大きな手術を受けた後と同じだと思うんです。回復するけれど、大きな傷跡が残って、元どおりに治ることとは違います。ようやくかさぶたができて、血が出なくなったら、今度はいつかさぶたをはがすかを考える。かさぶたを剥がすタイミングは中々難しい。もう大丈夫と思って、剥がすと出血して、何度も繰り返しているうちに痕になってしまう。それが、グリーフワークなのではないかと。

いま思えば、私は祖父母や大切な人たちとの死別、丁寧な弔いやその後の供養の時間を通じて、そのかさぶたをはがすタイミングを教わっていたように思います。悲しみを抱きながら生きていく方法を学んでいました。何年たっても悲しみにサヨナラはできないから、共存するしかないということも、教わっていたのだと思います。

喪失という意味では、死別だけがグリーフではなく、失恋も人生の挫折、職場でプライドをズタズタにされるような経験もグリーフだと思います。二人の息子たちは強いですよ。妹との死別に比べたらどんなことも大したストレスではないと言いますからね。最愛の人との死別や、葬儀・供養の時間から、悲しみとの付き合い方を学んでいれば死別以外の喪失を経験したときにも役に立つのだということを知りました。

もし、孫や子に迷惑をかけたくないと思うなら、葬儀をしっかりとして、喪失や悲しみとの付き合い方のレッスンの機会を与えてあげてほしいと思います。私は両親からレッスンを受けていたから、いま生きていられるんです。

- ご葬儀が、人生における他の喪失に対するレッスンになるというのは、重要な示唆ではないかと思います。細かにお話しくださってありがとうございました。

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