【行ってきました】船村徹さん告別式。故郷・栃木の風景を象った祭壇と不滅の昭和歌謡に包まれて


2017年2月16日に亡くなった作曲家、船村徹さんの告別式が2月23日、東京・文京区の護国寺桂昌殿で営まれました。

「春を呼ぶやさしい雨」と葬儀司会者は表現しました。

小雨の降る中、護国寺まで足を運んだ会葬者たちを迎えたのは、ギター、バイオリン、チェロ、バラライカ、そしてアコーディオンで編成された、その名も「仲間たちバンド」の演奏。

生涯で5,000曲以上の歌を手掛けたという船村徹さんの音楽仲間たちが、美空ひばりの『みだれ髪』、春日八郎の『別れの一本杉』などを次々と演奏し、式場は不滅の船村メロディー、深い哀愁・郷愁に満ちた日本の心の歌で満たされました。

その出発点のキングレコードが近くにあったこと、そして、船村さんの発案でヒットしなかった歌を供養し、音楽界の仲間を追悼するという「うた供養」を最初に開いた場所という縁から、葬儀会場には護国寺が選ばれました。

施行は株式会社JA東京中央セレモニーセンターです。

 

日光連山とお花畑をイメージした生花祭壇

正面に据えられた祭壇は、故郷・栃木の雪をかぶった日光連山とお花畑をイメージして制作。2015年に建てられたばかりの船村徹記念館から見える風景でもあります。

高さ4.5メートル。幅10.8メートル。奥行き6メートル。そして山々の上にが船村さん直筆の「みだれ髪」(美空ひばり)の歌いだしの部分の音符を配しています。

花の種類は、キク、スプレーマム、小菊、ソリダスター、バラ、スイートピー、カーネーション、チューリップ、チース、ソリダゴ、ミリオ、ヒムロ、ヒバと総計7,600本。

ほかに籠花として、キク、スプレーギク、マリンブルー、トルコキキョウ、アストロメリアと総計20,800本。

合わせて28,400本の花が祭壇を彩っています。

 

遺影は百瀬恒彦さんが撮影

祭壇中央に据えられた笑顔の遺影は、2013年に出版した自伝「魂の響き―のぞみ」の製作の際、カメラマンの百瀬恒彦さんが撮影したもので、2015年に日光にオープンした「船村徹記念館」でも使われている写真です。

祭壇には、近年、最も大切にしていたという、岐阜県可児市にある株式会社ヤイリギター社製のアコースティックギターが。さらに、敬愛していた12歳年上の実兄・福田健一さん(昭和19年、23歳で戦死)の軍刀も飾られていました。

また、祭壇の前には、、葉巻(シガー)、愛用の葉巻専用のクリスタル灰皿が並びます。

船村さんの曲名にもなった日本酒、故郷・栃木県塩谷町の松井酒造の「男の友情」や、数年前に家族が贈ったという船村さんの写真を刷り込んだウィスキーのボトルと愛用のチタングラス。

遺作となった『都会のカラス』直筆譜面(作詞:舟木一夫、歌唱:村木弾、4月19日発売。日本コロムビア株式会社)もありました。

 

船村さんは2016年には文化勲章も受章。天皇陛下より、祭粢料(さいしりょう)も賜りました。

 

棺の中にも葉巻と日本酒

一方、棺の中にも、副葬品として葉巻(シガー)と金沢の日本酒「加賀鳶」を小さなペットボトルに入れて納めました。

紺色の帽子と鉛筆、さらに松本楽譜社製、直筆の名前ロゴ入り五線紙と愛用の品々と共に、食事によくかけていたというお酢も入れています。

 

戒名にまつわるエピソード

戒名は「鳳楽院館酣絃徹養謠大居士(ほうらくいんかんげんてつようだいこじ)」。

「音楽の天子」であり、「酒を飲んで音楽や楽器を楽しむ歌謡の人」という意味の名で、その原作は船村さん自身。

何年か前に栃木県日光の仕事場だった楽想館(がくそうかん)で、酔った船村さんが書き留めるように「戒名を決めた」と言ったのが、「船村院音曲母衣酔大居士(しゅうそんいんおんぎょくほろよいだいこじ)」というもの。

今回、戒名をお願いするにあたって、これを見せ、船村さんのスピリットを感じられる名前を考えてもらったと言います。

 

「昭和」を見送る人たち

葬儀には芸能界・音楽界の人たちに混じって、ファンも大勢訪れました。

そのほとんどは「昭和の高度成長時代、船村メロディを聴いて励まされた」と語る団塊の世代の人たちや、その上の世代の人たちです。

中にはあの時代、「集団就職で上京してきた」という人もいました。

70代の男性2人組は「20年前に船村さんが自作の曲を自分で歌っている5枚組のCDを買ったんだ。自伝などの本も全部持っているよ」と、船村さんに対する熱い思いを語りました。

そして「昭和が終わってしまう。寂しいね」という感想も。

また、この人たちをはじめ、訪れたファンの中には栃木県ご出身の人たちが数多く見受けられました。

あるご夫婦は「だってあなた、名前自体がそうじゃない」と。

船村という名前が、故郷の栃木県塩谷郡“船生村”から取ったということ(本名は「福田博郎)で、祭壇のデザインが示す通り、栃木への愛は強烈なものがありました。

そして、葬儀委員長を務めた新井良亮(あらい・よしあき)氏も栃木出身者。

新井氏はは元JR東日本の副社長で、県人会で船村さんと知り合い、鉄道が大好きだった船村さんと意気投合。以来20数年、親交を深めたと言います。

 

「先生は世界一の親父です」鳥羽一郎さんの弔辞

800名におよぶ会葬者を集め、午前11時からその新井氏の挨拶から葬儀は始まりました。

導師入場の後の弔辞は3名。

一般師団法人日本レコード協会会長の斎藤正明氏は、音楽業界における船村さんの功績を称えました。

栃木県知事・福田富一氏は、栃木におけるエピソードの数々を披瀝しました。
船村さんと寝食をともにした内弟子であり、多くの船村メロディの歌い手であり、現在は同門会会長である鳥羽一郎さんの、永眠した師匠との固い絆を誓う弔辞は、会葬の人たちの心を震わせました。

 

鳥羽一郎さんの弔辞

「たとえば俺は死んだなら、命のすべてを灰にして、北の空から撒いてくれ」

1年前、先生は俺にそんな歌詞の歌を歌わせて・・・

あれは辞世の歌だったんですか? 遺言だったんですか?

内弟子3年。その後もずっと男の生き方・考え方を俺はぜんぶ教えてもらいました。

先生は世界一の親父です。自分の神様です。

心配や迷惑ばかりかけましたが、俺は親父の不肖の息子です。

76曲も俺は親父の曲をもらいました。いちばん多くもらいました。

そして、いちばんいい歌をいただきました。

おやじ、ありがとうございました。それが俺の宝です。俺の自慢です。

2月16日、親父の魂は俺のからだの中に入りました。

俺は生涯、親父といっしょです。そして、いっしょに歌っていきます。

同門会のみんなも同じだと思います。俺はそう覚悟を決めました。

おやじ、それでいいんでしょう? それでいいんですよね?

以上です。

 

出棺は「おやじ」そして「別れの一本杉」の旋律とともに

喪主・蔦将包(つた・まさかね)氏の挨拶で葬儀が締めくくられ、遺族・内弟子・親しい友人のみによる最後のお別れが済む頃、入口には高級リムジンの霊柩車が到着。司会者は船井さんの出棺を「人生の勝利者の胴上げ」と表現しました。

そんな表現に応えるかのごとく、鳥羽一郎氏の持ち歌である「おやじ」を、担ぎ手全員で歌いながら棺を車の後部に収めました。

そこに流れるのは、1955(昭和30)年、若くして亡くなった親友・高野公男が作詞し、春日八郎が歌って大ヒットした「別れの一本杉」。船村さんの出世作です。

 

棺を乗せた霊柩車を追って、親族も3台のハイヤー、2台のマイクロバスに分乗し、火葬場へ向かいました。

見送りが済み、リフレインしていた「別れの一本杉」が途絶えると、多くのファンが昭和の名残を噛みしめるかのように、雨上がりの護国寺からゆっくりとした足取りで去っていくのが印象的でした。

 

お墓は神奈川県藤沢市にあるお寺の墓地を、10年前に購入していたという船村さん。富士山と江の島と自宅が一望できる高台に墓石のみあり、文字などはまだ彫られていないそうです。

会葬者に配られた礼状には直筆で、昔から好んでいた言葉の一つ、「酒は友、音楽は母」と書かれていました。

(福嶋誠一郎)

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