津川雅彦さん、朝丘雪路さんご夫婦の合同葬お別れの会。青山葬儀所で

津川雅彦さん朝丘雪路さんお別れの会

2018年8月4日に逝去された俳優の津川雅彦(本名:加藤雅彦)さん、そして4月27日に逝去された女優の朝丘雪路(本名:加藤雪会)さん夫妻の合同葬お別れの会が11月21日、東京港区の青山葬儀所で開かれました。
喪主は長女、真由子さん。お別れの会の施行は、株式会社東京葬祭です。

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虹をイメージしたカラフルな祭壇

津川雅彦さん朝丘雪路さんお別れの会_祭壇祭壇は虹をイメージ。明るくカラフルな花で彩られています。

花の種類はマム、カルテット、トルコキキョウ、ユリ、カーネーションなど。全部で約4,000本の花で飾られています。丘のようなデザインの祭壇に、お二人の遺影が仲良く並んでいます。

お二人一緒の合同葬にしたのは、「(朝丘雪路さんの)送別会を開かなければ」とおっしゃっていた矢先に、津川さんもご逝去されたので、お二人ご一緒にお別れ会を開くことになりました。生前から「お葬式はお祭りだ」とおっしゃっていたという津川さん。そんな故人の意思を尊重して明るく華やかな祭壇を用意したそうです。

奥田瑛二さんの弔辞(全文)。「ゴルフなんか死ぬまで、死んでもやるもんか」

司会はアナウンサーの露木茂さん。津川雅彦さんとは早稲田大学高等学院時代の同級生だったそうです。

また、俳優の奥田瑛二さん、演歌歌手の五木ひろしさん、そしてタレントの黒柳徹子さんの3名が、弔事を奉読しました。

奥田瑛二さんの弔辞(全文)

津川さん

露木さんの粛々としたご案内があったものですから、ちょっと神妙になりました。

しかし役者ですから、パッと明るくいきたいなと思っておりますが、あなたが、津川さんがお亡くなりになった訃報を聞きまして、もう100日以上なりますが、その時、呆然といたしました。

じゃあ、どうやって連絡したらいいんだろう?

連絡しても多分、連絡が取れないだろうと予測して、いや、死んではいない。だったら携帯に電話しよう、というので、津川さんの携帯に電話をしたら通じましたね。

何?亡くなってないんだと一緒に頭をよぎりました。

そしたら「もしもし」という、真由ちゃんの声が聞こえました。

あちゃーと思って、やっぱりそうか。

そして、真由ちゃんに何を言ったか僕も覚えていませんが、その時、5分くらい経ったらもうたまらなくなって、涙が出そうになり、「泣きそうだから電話切るね」と言って電話を切りました。

そしてさらに呆然としてる中、「いやあ、この目で確かめない限りは認めない!」という風に自分に言い聞かせました。

以来、私は一滴の涙も流しておりません。四十九日が過ぎたら、よし、泣くぞと思いましたが、つまり、泣きたくない。

それは津川さんの人生、すべからく爛漫に、毎日がお祭りであり、そして前向きにどんどんどんどんリーダーシップをとって進んでいく。

我々は随分と、私にとってはもう40年ですか?

お付き合いをさせて頂いております。40年の間にはいろんなことがありすぎましたね。

楽しいこと。

喧嘩もしました。

大喧嘩、それもゴルフ場です。

それも芸術論です。

僕が「芸術至上主義者だ」って酒飲んでいいましたら、津川さんが目をきっと開いて「何だお前は!えっ?芸術至上主義?冗談じゃない。芸術至上主義なんてクソくらえだ!青二才!」と言ったのを未だに覚えています。

そしたら、僕は涙がバーっと、悔し涙が流れました。

それに追い打ちをかけるように「あのな、奥田。俳優というものはだな、映画もそうだ。全て我々がしてることはエンターテイメント。いかに人を喜ばし、楽しくさせるか。芸術を語る奴には、そんなことはできない!」っていうふうに言われて、逃げ出して隅で泣いておりました。

……ゴルフ場ですよ。

で僕は、ハーフだけ回って、三島から新幹線乗って帰りました。

夜汽車に揺られながら窓に映る自分の顔。

情けないったらありゃしない。

以来私はゴルフをしておりません。

ゴルフなんか死ぬまで、死んでもやるもんかって思っており、津川さんに何十回も誘われましたね。

「謝るからさ、奥田。ゴルフやってくれよ」

手をついて「やろう」と言われてもやりませんでした。

理由はわかりませんが一旦こうと決めたら、どうしても納得できない、私の性格を津川さは知っていたにもかかわらず、お誘いにお誘いを受け、ゴルフをすることができない。

いずれ、ご一緒したいなと思っておりましたが、まあそれもできなくなってたので。

私は津川さんと10歳違いですが、僕は98で死ぬのを決めておりますのでまだ30年あります。

30年後にゴルフをしましょう。

と、言いながらも、あなたは亡くなったのを認めておりません。

以前、津川さんが「奥田、おいお前、お前はどういう人生観を持ってるんだ?」って言ったときに僕は、何も言えませんでした。

そうしたら津川さんが「この世はワンダーだ。不思議。それでな、それがフルなんだよ。それはな、ワンダフル。ワンダフルなんだ。俺はそういう気持ちで役者をやっているし、生きることをワンダフル。ワンダー・フルでやるからな」

ワンダフルは辞書で調べますと、まあ調べなくてもわかって、皆さん、いらっしゃいますけど「素晴らしい」ということ。それで不思議。お伽。それがフルにある。

「そういう人生は最高だ。でな、ひとつ劇団を創る。ワンダフル一座。創るからな。それを創って、皆を喜ばそう!」

って言って、僕も座員の一人に関わり、楽しい舞台を過ごした覚えがあります。

津川さんはやり残したことがいくつかありますね。

それを残された我々、若いといえば私もその中に入るでしょうか?

我々そして後輩たちに伝わったのか、伝わってないのか?

僕はそれを聞きたかったんですが、幽霊としてもあなたは出ていらっしゃらなかったんで、伺うことができませんでしたが。でも、やりたいことがいくつかあったのは知っておりますので。できうる限りそれを受けて、微力ながらこれからの私も精進していきたいなと思っております。

来月、クスマスですね。

サンタさん、津川さんは皆のサンタさんです。

そして、グランパパです。

皆のおじいちゃん、先輩、そう思っております。

ですから私は、お別れ会と言うよりも、まあ顔は見れないけど、あえて言う。そして自分の心と、心に焼き付けて過ごしていきたいと思っております。

その顔を見ていると「奥田、生意気なこと言うんじゃないよ」って言われそうですか、微力ながら、やっていきます。

朝丘さんそうやってお二人がツーショットでいるのは珍しいですね。

珍しい。

何かお話しなさいましたか?

えっ?まさひこちゃんが何も言うこと聞いてくれない?

いやいやいやいや。まだね、津川さんはね、迷っているかもしれない。というのは三途の川を渡りたくない。まだ観ていたいという気持ちでいらっしゃるのかもしれません。

まあそのうち、皆で、仲間でもう心配しなくてもいいから。

朝丘さんのもと、そして盟友である緒方拳さんのもと、先輩である三國連太郎さんのもと、あまたいらっしゃる仲間たちのところにお返ししますから。しばらく私の心にも生かさしといて、……生かさせといていただきたいであってますかね?

では津川さん。またお会いする日まで。

津川雅彦さん朝丘雪路さん_弔辞_奥田瑛二

黒柳徹子さんの弔辞(全文)。「(真由子さんに)ボーイフレンドができると、すべてまさひこちゃんはそれを壊していました」

津川雅彦様

テレビドラマに出ていた時一番共演が多かったのがまさひこちゃんでした。

恋人もやりました。

秘書も、会社の同僚も。

そんなわけで若い頃からのお友達でした。

まさひこちゃんは取り繕うことがなく、いつ会っても変わらないまさひこちゃんでした。

朝丘雪路さんと結婚した時、後で笑い話になりましたが、ある日新幹線に乗ったらまだ人の乗り込んでない車両の中にまさひこちゃんが立って誰かと話をしていました。

私は近寄りながらかなり大きい声で、「ねえ、結婚したんだって?」と聞きました。

「そうだよ」

と言うので、私は大きい声で「どうして?」と聞きました。

その頃、まさひこちゃんはプレイボーイでした。

結婚なんて無縁に思えていたからです。

「どうして?」っていう私の質問に、まさひこちゃんは「だって踊りが上手いからさ」って言いました。

「えっ?踊りが上手いから結婚するのは変じゃない?」

と、なおも大声で言いました。

なんかまさひこちゃんの態度が変なので、気が付いたら反対側の席に朝丘雪路さんがネッカチーフをかぶって座ってらっしゃいました。

私は「じゃあね」っと、自分の席に座りました。

後年、朝丘さんに「あの時私たちが話していたこと聞こえました?」と言ったら、朝丘さんはあの声で、「ええ、聞こえてました」と言いました。

その数年後、真由子さんが生まれて、まさひこちゃんはどこへ行くにも真由子ちゃんを連れて歩きました。

5歳くらいからです。

20歳くらいまで続きました。

大人の間に挟まって5歳のまいこちゃんはどんな気持ちだったのかな?と思いますが、そのぐらい可愛がっていました。

17、8歳になった頃、ボーイフレンドができると、すべてまさひこちゃんはそれを壊していました。

後年、最後に会った時、「真由子ちゃん結婚は?」と聞いたら、なんかもそもそ言って、どうやら「結婚したけど仕方がない」みたいな、残念そうな声でした。

こういうお父様とお母様を同じ年に亡くした真由子ちゃんの悲しみは、お慰めの言葉もないくらいです。

私は、まさひこちゃんの老け役に期待していました。

おばさんの沢村貞子さんに、「まさひこは顔がいいから。人の4倍は勉強しなきゃ、上手いと言われないよ」と言われていました。

私はこの間、「勉強は4倍したの?」と聞いたら、「したよ」と言いました。

確かに最近のまさひこちゃんは、個性的ないい俳優になっていました。

人にわからないように勉強したのでしょう。

でも私はもっともっと、歳をとったまさひこちゃんの芝居が、観たかった。

本人もきっと残念がっているでしょう。

長い間お友達でいてくれて本当にありがとう。

心からご冥福をお祈りしています。

ありがとう。

津川雅彦さん朝丘雪路さん_弔辞_黒柳徹子

黒柳徹子さんのあたたかい弔辞(他の方のお別れの会の記事にリンクします)

>>佐々木忠次さんお別れの会

>>永六輔さんのお別れの会

弔辞を奉読する五木ひろしさん

津川雅彦さん朝丘雪路さん_弔辞_五木ひろし

喪主、真由子さんの挨拶(全文)。「二人の人生の舞台の千秋楽を大向こうと拍手で」

津川雅彦さん朝丘雪路さんお別れの会_喪主挨拶津川雅彦さん、朝丘雪路さんの娘、真由子さんは喪主の挨拶に立ち「いつも度肝を抜かれる父と母でした」と、さまざまなエピソードと共に二人の思い出を語りました。

朝丘雪路さんが亡くなって、百箇日で後を追うように逝去した津川雅彦さんについて、「そんなに後を追いたくなるほど仲が良かったかな?って。それよりも私と一緒にいたかったんじゃないの?」としながらも、何回も辛い思いをするよりもという優しさだったのではと。

最後は、「人生の舞台の千秋楽是非を無効と拍手父と母を見送ってあげたい」と、会場は盛大な拍手で包まれました。

喪主の挨拶(全文)

本日は、お忙しい中、父、津川雅彦、母、朝丘雪路の合同葬お別れの会にご列席賜りまして心より御礼申し上げます。
自分事なんですが、本当に喪主って辛いなって思う、今日この頃です。

父と母は生前から遺言のように、「お前な」って。
「とにかくじめじめした葬式、俺は嫌だ」と。だから「必ず盛大にパーティーにしてくれ」と言われておりました。
でもそれは、なかなかパーティー風にやってあげることはできず、今は「お前もじめじめした挨拶するなよ」と。今、きっと後ろから見て、ダメ出しをしてる最中だと思います。
なので、なるべく笑って、父と母の思い出を話して、ご挨拶に代えさせていただきたいなと、思っていたのですが。たくさんありすぎてですね、何をお話ししたらいいかなってすごく悩んでます。

亡くなった直後の方が、私は本当に、「このまま私乗り切れるかも」って思うぐらい平気だったんですけど。今がすごく、すごく辛いです。
「これからもっともっと辛くなるよ」って言われるんですけど。

もう本当に笑うぐらい。
スーパーに行って、父がよく気に入ってた「この柔らかいティッシュ。この銘柄がいいんだ」って言ってたティッシュボックス。見るたびに涙が出たり。母のCD を聴くとまた涙が出たり。自分で本当に、涙が出た後に笑っちゃうぐらい、今が一番、自分の中ですごく辛さが来てます。

でも本当に、父も母もですね、決して理想的な父と母だったとは言えないと思います。
もう本当に父は好きなことをやり、家族よりも周りの自分の大好きなお友達や先輩や後輩やを大切にして、「僕はみんなと楽しく、やりたいことをやるんだ」って生きてきた人ですし。

母は母で、皆さんご存知の通り、何もできない、もう本当にお嬢様一本で来た母ですので。

自動販売機に「朝丘です」って。

「ママ。小銭入れないと買えないよ?」

「えっ?大丈夫よ真由子。朝丘です」

もう、その三越の屋上で、母、お帳場で、この自動販売機も買えると勘違いしている母を見ながら「大丈夫かな?」って、思ってた4、5歳の頃を思い出します。

それで、父は父でですね。
もうあの3.11の時に地震があって、父から一番最初に電話があったんですね。
で、「大丈夫か?」って心配してくれるのかな?って思って、「もしもしパパ?」って出たら、「お前な、今、皆が大変だって言って大阪に逃げたりいろんなとこに逃げてる。でもお前はな、日本人として生まれた限り、堂々と胸を張って日本とともに死ね」って言われたんですね。

えー!?娘、大事な娘を死ねって……。

心配の「大丈夫か?」の一言もなく言う父でしたし。もう本当に、あのすごく、いつも度肝を抜かれる父と母でした。

なので本当に、完璧ではなかったですけど、私の中では、世界一の胸を張って世界一のお父さんお母さんだったって。今は言えます。
本当にお父さんとお母さんの娘に生まれて良かったなって。

今は本当に、たくさんの悔いが残ってます。
たくさん涙も流してますし、でもこれが、こんだけ父と母を愛してたんだよって。
だから悔いも残るし。会いたいから涙も出る。

だからいっぱい泣かしてねって、今お願いしてます。

でも、やっぱりこの、せっかくこの場をやることができ、本当に皆様のお力添えのおかげでお別れ会をすることができ。本当に私、独りではもう何もできませんでしたし。

本当に、皆さんに感謝していますし。父と母が、やっぱりそんだけの、人望で、ちゃんと遺された娘に、一人にならないように、ちゃんと俺達がいなくても、がんばれよって。言ってくれたんだなと、本当に感謝しています。

父と母は本当にまあ、3ヵ月の間で亡くなってしまって。母の百箇日に父は逝きました。
で、「えっ?」って。生前、ね、びっくりするほど、そんなに仲が良かったかな?って。こんなこと言うのもあれなんですけど、そんなに後を追いたくなるほど仲が良かったかな?って。それよりも私と一緒にいたかったんじゃないの?ってお父さんに何回も言うぐらい、母の百箇日で父は逝ってしまい。

でも、今思うとですね、父はずっと私が悲しい時、辛い時に相談すると「お前な」って。「起きたことはすべて正しいんだ。世の中に偶然はない。すべて必然だ」ってよく言ってました。でもその言葉で、「起きたことはすべて正しいんだから、もうしょうがないよね」って言ってると、「お前はな。その言葉を飲み込みすぎるんだ」って「もう少し考えた方がいい」って「簡単にすぐそうなるな」っていつも言われてたんですけど。

父と母がこうやって3ヵ月の間に一緒に亡くなったことも私にとって何か意味のあることなんだろうと。意味のあることにしていかなきゃいけないんだなと。
自分で思い、これからは父と母の意志を継ぎ、それをがんばって、意味のあることにしていきたいって思います。

でも本当に父と母は子孝行な親で、自分が亡くなる時も辛い姿を私に見せることもなく。安らかに眠るように亡くなりましたし。この3ヵ月の間に亡くなったのもきっと「お前が何回も辛い思いするんだったら、俺たち一気に逝って、この一気に乗り越えれば、後は大丈夫だろ?」って言ってくれてんじゃないかと思いながら、子孝行だった父と母に、これからはいろんなことで自分が意味のあることにこの父と母の死を意味のあることにしていくことで、今まで親孝行できなかったんですけど、亡くなってからで本当にごめんなさい。でもこれから、がんばって親孝行で恩返ししていきたいと思っています。

それで、皆様にこんなに支えていただいてるのに、お願いをするのは本当に厚かましいと思うのですが、2つほどお願いがあります。

父は本当に、人とのコミュニケーション、人を大切に思いやりを大切にっていう、父で。すごく日本を愛してました。
もう本当に車に日本の旗を貼れって言われて、父と家族みんなで貼ってたら警察の人に捕まって、「お前のお父さんはどういう職業だ?」と聞かれて。

「お父さん、そういう風に聞かれたんだよ」って言ったら、「今度からお前、『うちの父は無欲です』って言え」って、言われてました。

でもそれくらい父は日本を愛してましたし、すごくこの、人と人を大切にしてた人なので。やっぱり人との繋がりっていうのをこれからもどんどん広げていきたいと思うんですね。で、やっぱり亡くなって皆さんの記憶の中でとか、若い人、若い俳優さんの。これから出てくる俳優さんとかどんどんやっぱり語り継いで行かないと、忘れ去られていったり。それが私にとってすごく、悲しいことですので。

ぜひ皆様には、いつまでも父と母の思い出話や、父と母のこうだったよ、ああだったよということをたくさんいろんな方に話していただいて、語り継いで行って、父と母を長生きさせていただきたいって、思っております。

そして最後に2つ目なんですが。

やっぱりパーティーはできなかったんですけど、父と母の人生の舞台の千秋楽。
ぜひ大向こうと拍手……。

父と、父と母を見送ってあげたいと思います。

なので、僭越ながら、私が口火を切らせていただきますので、皆様も、大向こうと拍手で、父と母の千秋楽の幕引きいただけたらと、思っております。

本当に本日はありがとうございます。

それでは、お父さんお母さん、千秋楽お疲れ様。

津川!

朝丘!

安倍首相の献花と挨拶(全文)。「本当に何回も勇気を与えていただいた」

津川雅彦さん朝丘雪路さんお別れの会_安倍晋三首相安倍晋三内閣総理大臣も式に訪れ、献花を行いました。また、お別れの言葉として、生前の津川雅彦さんとの交流について語りました。

第一回目の政権が終わり、政治家としては苦しい時期を過ごしていた時に、津川さんがブログで声援を送ってくれたのがはじまりだったといいます。

また、真由子さんの喪主の挨拶での、「(夫婦は)そんなに仲良かったかな?」という発言についても「人生はいろいろありますから」と述べ、会場は明るい笑いに包まれました。

安倍首相の挨拶(全文)

安倍晋三でございます。ご指名でございますので、一言お別れの言葉を述べさせていただきたいと思います。

津川さんの体調があまりすぐれないという話は承知していたのでございますが、こんな突然の形でお別れがやってくるとは、思いもよりませんでした。この後にもメールで「安倍さん美味しいもの食べに行こうよ」と、そういうお誘いがあるような、そんな気持ちが今でもしています。

私と津川さんとのお付き合いは10年余りでございまして、皆様に比べれば、それほど長くないかもしれませんが、本当に濃厚な時を、過ごすことができたと思っています。

第一次政権が1年で終わり、大変厳しいご批判もいただく中で、政治家としては非常に厳しい時を迎えておりました。政界というのは大変わかりやすい世界でございまして、力を失ったり、厳しい状況になるとさーっとみんな引いてくんですね。

その中でむしろ、逆に津川さんは、そういう時にブログで私にエールを送っていたいただき、私の方から津川さんにお目にかかりたいと思って声をかけさせていただきまして、一緒にお食事を共にしました。

そうしたら津川さんから、「安倍さん、がんばってもう1回やんなよ」と。

「しばらく時間かかるかもしれないけれど、それまで一緒に美味しいものを食べたり、俺の仲間紹介するから楽しい時間を過ごさないか?」と、こう言われまして、津川さんが作った耽美会という、日本の美を追求する勉強会、そして津川さんの気の置けない仲間たちと共に美味しいものを食べながら、いろんな話を交わす。そういう会を重ねてまいりました。

私にとりましては本当に、時の経つのを忘れる、至福の時でもあったと、本当に懐かしく、たくさんの思い出が湧き上がってきます。

そして津川さんから背中を押される形で政権に復帰を果たした後も、拉致問題については本当にボランティアで、中心的な役割を担っていただきました。

そして津川さんの持論である、まさに津川さんは愛国者ですから、日本の素晴らしい美をもっともっと世界に発信すべきだと。「せっかく総理大臣になったんだから、文化大切にしろよ」と、言われまして、日本の美総合プロジェクトというものを作りまして津川さんには座長に就任をしていただき、そして津川さんのですね、執念と言ってもいいと思うんですが、理念と執念の結晶として、今年パリで「ジャポニズム2018」が開催されました。

今でもやっておりますが、津川さんの持論である縄文時代の素晴らしさから、現代のポップカルチャー、ポップアートになるまで大変長い時間軸で、日本の美をですね、非常に幅広く紹介する。これね、今、本当にたくさんの人達に足を運んでいただき、大成功のうちに今も続いているわけでありまして。改めて津川さんに御礼を申し上げたい。

体調があまりすぐれない時にもですね、何回も車椅子でこの懇談会には足を運んでいただきました。本当はですね、是非ともパリに足を運んでいただきたかったなーって言うのは私の我がままなんですが、残念でなりません。

もう優しさに満ち溢れた方です。

私も本当に何回も勇気を与えていただいたし。

私の地元まで何回も足を運んでいただいて、応援演説もしていただいた。

津川さんの晩年は、世の中にですね、種をまくことを大切にしていたような気がするわけでございます。

最愛の奥様と共に。まあ、お嬢様から「そんなに仲が良かったのかな?」という話もございましたが、これ人生いろいろありますから。奥田さんも笑っておられますが、夫婦っていろいろあるんですよ。やっぱり最後の段階で「お前がいて」ということになるんだろうなあと、こう思うところでございますが。

天上から最愛のお嬢様のことを温かく見守ってっておられると思います。

自分のまいた種がですね、育っていく様を見守っていただけるのではないかなと、こう思います。

改めまして津川さんのご冥福を心からお祈り申し上げまして、そして二人で、安らかにお眠りになられますことを。ご冥福を祈念いたしまして彼の言葉とさせていただきたいと思います。津川さん本当に、ありがとうございました。

津川雅彦さん、朝丘雪路さんの合同葬お別れの会に参列した方々

津川雅彦さん朝丘雪路さんお別れの会_看板

(取材・執筆/小林憲行)

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