ねぇ、知ってた? 父さん

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今は亡き父へ

ねぇ、知ってた? 父さん。

父さんの《我が青春の思い出》という文が、平和祈念展示資料館の『平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦(満州引揚者編)』に載って展示されていることを……。

父さんが生きていたら丁度、百歳最後の日のこと。

甥がパソコンで〈宮城の白菜〉と検索。

なんと、宮城の百歳の尾形道が画面に出てきたんだって。

もし、翌日だったら私達は一生、目にすることが出来なかったね。

今は、《我が青春の思い出》で検索すると見ることが出来るんだよ。「明日は俺百一歳だよ」の天国からのメッセージだったのね。

父さんがそんな文を書いていたなんて知らなかったので、信じられないほどの不思議なことでした。間違いなく、子供の頃に幾度となく聞かされた満州での生活や引き揚げ時の労苦、残酷な状況や戦争の悲惨さが書かれた文でした。

妹達と東京に見に行こうと思っています。約束するね、父さん。

あの文を読んで改めて感じたことだけど、父さんは誰にでも優しく、且つ正義感の強い人でしたね。

父さんは県職員を退職後、第二第三の職場へと、七十二歳まで働いていましたね。

さぞ体がきつかったことでしょう。

父さんの働く理由は「家にばかりいてもボケるから」。でも、私も三人の子供を大学まで通わせてみて分かったことだけど、それは四人の子供を大学まで通わせるための学費稼ぎの口実だったのね。

そうとも知らず、わがままなことをしてしまいました。

何も気づかない鈍感な娘ですみませんでした。

それから、もう一つの気づいてあげられなかった父さんのとった行動。

それは父さんが八十九歳の時、「俺、施設に入りたい」と言って老人ホームに入所しましたね。

一年間「家に帰りたい」とか「寂しい」とか、一言も言わなかったのに、父さんが亡くなる三日前、遺言のように母さんに「バアさん、これからは恵美子の家で世話になれよ」と、言ったよね。

母さんには同じ寂しい思いをさせたくないという気持ちから出た言葉だったのね。

入所の本当の理由は、同居している半身不随の姉さんに迷惑をかけまいとする為だったのね。

どんなにか寂しい一年間だったのかと思うと、何も気づいてあげられなかった自分が情けなく仕方がありません。

ごめんね、父さん。

母さんには、なるべく寂しい思いをさせないよう頑張ったつもりです。

今は、天国で二人仲良くいつも、ニコニコしていることでしょうね。

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」より

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」は、父母、祖父母、先生、友人、近所の人など。“あの人”とかつて一緒にいた時に言えなかったこと、想い出や、“あの人”が亡くなった後に伝えたくなったこと、感謝の気持ちなどを綴ったお手紙です。

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