シベリヤ抑留のお父さんへ

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今は亡き父へ

お父さん、お帰りなさい。

長い長い年月シベリヤの凍土の中に埋められていたあなたの遺骨が、戦後六十二年たって私達子どもの所へ帰って来るなんて、夢にも思いませんでした。

一九四五年五月、中国東北地方内モンゴル自治区ハイラル市で、現地応召された三十六歳のお父さん。

「爆薬を抱いてソ連の大戦車に飛び込む練習ばかりしている」と面会の時にお母さんに言ったそうですね。

間もなく日本は敗れ、終戦。

お母さんと私達小学生の子ども四人は一年二ヵ月の難民生活の末、何とか生き伸び日本に引揚げる事ができました。ぼろぼろの姿で突然帰った私達をおさえたおばあさんは声をあげて泣きました。

それからのお母さんの奮闘は筆舌に尽くし難いものでした。女の細腕で一家六人を養い、子ども四人を大学で学ばせました。一方,お父さん、あなたの行方を捜すべくNHKの「尋ね人」の時間にお願いしたり、種々手を尽くしましたがどうしても分からず、止むを得ず七年後に戦死公報を入れてもらいました。

あなたの名前を書いた紙切れ一枚の白木の箱をお母さんは受け取って来ましたが、「それよりも戸籍抹消手続きの方が悲しかった」と言いました。

おばあさん、お母さんは相次いで一九七三年に世を去りました。

その後も諦める事なくシベリヤ抑留者の資料を集めました。

厳寒の中での飢え、重労働、病いであなたもこの世を去ったのですね。

一九九九年七月、あなたの息子が厚労省のシベリヤ墓参団に参加。その後DNA鑑定の依頼をしました。

二〇〇七年六月、奇跡的にあなたと長男のDNAが一致したとの連絡が入り、遺骨一体分全部が還りました。嬉しさよりも驚きが大きく呆然としました。八月のお盆に子ども四人とその伴侶、孫十人、曽孫七人が集い、あなたの甥の正光寺様の読経で葬儀と法要を行いました。

七十歳過ぎた私達の生あるうちにあなたが還って来てくれて、本当に良かったと思いました。

幾多の困難をのり越えて生きてきた私達をいつもあなたが見守り、あなたもまた如何なる事があろうとも帰りたかったのですね。

第二次世界大戦で三百十万人もの命が失われました。

大切な人を失った遺族の悲しみ、苦しみは何十年経ようと決して消えることはありません。

人類はこの悲惨な戦争だけは、絶対にしてはならないと断言いたします。

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」より

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」は、父母、祖父母、先生、友人、近所の人など。“あの人”とかつて一緒にいた時に言えなかったこと、想い出や、“あの人”が亡くなった後に伝えたくなったこと、感謝の気持ちなどを綴ったお手紙です。

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