亡き友人へ

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今は亡き友へ

友人が亡くなり、もう七、八年の月日が経った。

月日を経たことで私も歳を重ねた。月日とはむなしい存在でありながらも、私個人にとっては回顧するに大切な存在でもある。

その人は、私の人生で初めての友となった人だ。

小学校からの付き合いで、お互いのことは知り尽くすほどの仲でもある。知り尽くしているからこそ、互いに存在を受け入れられる関係を築くことにもなった。

友人の訃報を知ったのは、私が仕事で広島にいた時。日にちは今でも忘れない四月一日。

訃報はメールで、別の知人から「○○が亡くなった」。

今でも文面が忘れられないし、強く記憶されている。

最初はエイプリルフールの悪い冗談かと思っていたが、どうやら冗談ではなく、友人の家に電話することにした。

友人の父からその事実を聞いて初めて、現実を知るに至った。

友人の父は「今まで息子と仲良くしてくれて有難う」と言ってくれた。

あの言葉も未だ忘れられない。

それ以降、私は四月一日という日が嫌いになり、どこか避けることになった。

友人が亡くなって七、八年経つ今も、それは相変わらずだ。どうしてもあの時の、あの記憶がよみがえってしまうからだ。

亡き友人の命日が近づくと毎年、線香を上げに足を運ぶことも決して忘れない。毎年、線香を上げつつ、仏壇に近況を報告している。

「今年もなんとか息災に生きてるよ。この息災がいつまで続くかわからないけど、精一杯生きていくことにする。生きられなかった分は私がその分生きる。だから安心してほしい」

毎年、このようにして亡き友人に報告しているのだ。

亡き友人へ。私は今この瞬間も生きているよ。瞬間瞬間、何が起こるか正直判らない。生きてるかもしれないし、もしかしたらこの世にいないのかもしれない。

でも生死はどうであれ、私は確かにここに存在している。だから安心してほしい。

そして、草葉の陰から、これからの私を静かに見守ってほしいと思う……。

亡き友人へ。友人となったこの十数年は真実であり、存在していたこともまた事実だよ。

歳とともに記憶が風化するのかもしれない。

でも、君が生きていたあの声は確かに今も、私の心に記憶として残っている。

これからも記憶を大切にしつつ、瞬間瞬間を生きていくよ。だから安心して……。

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」より

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」は、父母、祖父母、先生、友人、近所の人など。“あの人”とかつて一緒にいた時に言えなかったこと、想い出や、“あの人”が亡くなった後に伝えたくなったこと、感謝の気持ちなどを綴ったお手紙です。

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