【仏教解説】天台宗とは?歴史や教え、特徴について

小林憲行【記事監修】
小林憲行

記事監修小林憲行

天台宗とは
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天台宗とは、隋の時代に中国浙江省天台県で天台大師智顗(ちぎ)が開いた仏教の宗派で、平安時代に最澄が唐より持ち帰って日本に広めました。

日本における天台宗の歴史を辿ると、桓武天皇が平城京から平安京に遷都した理由や、奈良仏教のあり方への疑問が大きく関わっていたことがわかります。最澄は万民が仏になれるという大乗仏教の教えを唱え、日本全土に浸透させました。まずは天台宗の起源から辿ってみましょう。

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天台宗の歴史

天台宗の歴史

伝教大師最澄は、桓武天皇の援助を受けて唐に渡り、天台山で天台教学を学びました。そして帰国後の延暦25年(806年)、天台大師智顗(ちぎ)の教えを天台宗として日本に広めたのですが、日本ではすでに仏教が広まっていたにもかかわらず、なぜ新しい仏教を取り入れる必要があったのでしょうか。

奈良仏教から平安仏教へ

奈良仏教は、国を守る役割をもって栄華を極め、各寺院は相当な権力を握って政治に関与していました。特に、女帝・称徳天皇は、僧侶の道鏡に法王の座を与えるほどの寵愛ぶりで、天皇にすることまで考えていました。その後、道鏡は失脚するものの、仏教の力が強まることを危惧した天皇家は、政治と仏教を分離させる必要があったのです。

桓武天皇が、奈良の平城京から京都の平安京に遷都したのは、このような背景があったといわれています。新しい仏教を取り入れたのも、旧来の仏教との距離を置いた、鎮護国家のための仏教信仰が必要だったためでしょう。

平安仏教の代表となる天台宗や真言宗が都市から離れた山岳で開かれたことには、「距離を置く」という大きな意味があったのです。

家康の信仰へ

最澄や弟子の円仁によって天台宗が確立し、平安末期から鎌倉時代はじめにかけては各宗派の開祖たちが比叡山で学び、日本仏教を発展させました。

その後、織田信長により本山の比叡山延暦寺が焼き討ちに遭うなど苦難の時代もありましたが、徳川家康の側近である天海が天台宗の僧であることから、江戸時代には勢いを盛り返しました。

今でも天台宗の寺院が関東地方に多いのは、家康が信仰した宗派であることも関係していると思われます。

天台宗の教えとその特徴

天台宗では、万民すべてが仏になることができる法華一乗の教えを説いています。「乗」とは、まさに乗り物のことで、身分に関係なく死んだ者は1つの乗り物で仏の世界へ導かれるということを表しています。

最澄は天台教学に加え、教えが共通する「密・禅・戒」の三宗も日本に広めました。

これにより天台宗は総合仏教として確立されました。その後、法然、親鸞、日蓮など各宗派の宗祖たちが天台宗を学んだことから仏教の母山とも呼ばれています。天台宗宗憲には「天台宗は宗祖大師立教開示の本義に基づいて、円教、密教、禅法、戒法、念仏等いずれも法華一乗の教意をもって融合しこれを実践する」とあります。

このようにさまざまな教えを融合する天台宗は、ご本尊も寺院によりさまざまなのが特徴で、釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来などが祀られています。

お唱えする言葉

正式には、「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛(なむしゅうそこんぽんでんぎょうだいしふくじゅこんごう)」ですが、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱えることが多いようです。

よく読まれる経典

  • 「法華経(ほけきょう)」
  • 「大日経(だいにちきょう)」
  • 「金剛経(こんごうきょう)」
  • 「蘇悉地経(そしつじきょう)」
  • 「梵網菩薩戒経(ぼんもうぼさつかいきょ)」

お仏壇の飾り方

仏壇の飾り方

お仏ご本尊は久遠実成無作の本仏である釈迦如来ですが、阿弥陀如来をまつることも多いようです。それぞれの信仰によって、薬師如来、観世音菩薩、不動明王、毘沙門天などをまつることもあります(一般的には菩提寺のご本尊にならいます)。向かって右側に高祖天台大師を、左側に伝教大師最澄のご影像をかかげます。

※地域や仏壇の大小などによってまつり方に違いがありますので、正しくは菩提寺にお聞きください。

主要な寺院と現在

比叡山延暦寺(滋賀県大津市)

天台宗の総本山で、世界文化遺産に登録されています。最澄は、唐に渡る以前から比叡山で修業を重ね、延暦7年(788年)には一乗止観院を建て根本道場としました。これが延暦寺最大の仏堂である根本中堂です。

延暦寺御修法(みしほ)と呼ばれる法義は、天台密教最高の秘法で、天下や万民の泰平が祈願されます。鬼追い式は、炎の中で舞う鬼を修行僧が改心させるという大晦日の祭事です。

中尊寺(岩手県平泉町)

嘉祥3年(850年)、比叡山延暦寺の慈覚大師円仁により開かれました。その後、平安時代末期に奥州藤原氏初代、藤原清衡により整備され堂塔40余りの大伽藍が建立されました。中でも国宝建造物第一号の金色堂は、平泉黄金文化の象徴ともいえます。

前九年の役、後三年の役と呼ばれる東北地方の戦乱で失った命を慰め、非戦と平和を誓う証となる堂です。一度も焼けたことがなく、今でも金色に輝き極楽浄土を表現しています。

三千院(京都市大原)

天台宗を代表する3門跡寺院の1つ三千院は、最澄が比叡山東塔南谷に建てた円融坊にはじまるとされています。数度の移転を経て明治時代に現在の地に移され今の名称で親しまれるようになりました。

大原は、古来より貴人・修行者が隠棲する地でした。都の喧騒から離れ心を癒やす地であったといわれています。300本を超える桜の名刹としても人気の高い寺院ですが、秋のもみじまつりでは秘仏である不動尊が御開扉されます。

日光山輪王寺(栃木県日光市)

奈良時代に開山された日光山。江戸時代には徳川家康を祀った東照宮や、三代将軍徳川家光公の大猷院廟も建立されました。家康から絶大なる信頼を寄せられていた天台宗の大僧正・天海は、風水や北辰北斗信仰を重んじていました。江戸城も天海の指導により整備されたといわれています。

日光東照宮建立の際も、江戸の北に位置し大きなエネルギーが溢れるこの地が選ばれたのです。眠り猫や三猿も知られていますが、本殿前の陽明門の鳥居は有名なパワースポットとして人気を集めています。

まとめ

天台宗のまとめ

最澄が日本で広めた天台宗は、さまざまな教えを包括した仏教界の大学のような存在です。当初は政治と古来の仏教を切り離すために取り入れられた新しい仏教でしたが、誰もが仏になれるという教えは民衆に浸透し、今でも多くの宗徒が心の拠りどころとしています。

仏教は宗派により葬儀の執り行いの方法も異なります。葬儀についてわからないこと、ご不安などがあればいつでもお気軽にご相談ください。

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