平幹二朗さんの告別式。栗原小巻さんらに見送られ雨の中の旅立ち

82歳で急逝した俳優・平 幹二朗さんの告別式が10月28日、東京都港区の青山葬儀所で行われました。

11時の告別式会式を前に、10時を過ぎると、平 幹二朗さんと同じケイ ファクトリーに所属する俳優の佐々木蔵之介さんが会場に到着。その後、女優の栗原小巻さん、富司純子さん、中村玉緒さん、俳優の中尾彬さん、桐谷健太さん、溝端淳平さん、「Hey! Say! JUMP」の山田涼介さん、歌舞伎俳優の市川猿之助さんなど、俳優仲間や共演者、故人とゆかりのある方々約600人の人たちが会場を訪れました。

 

Adsense(SYASOH_PJ-195)

平幹二朗さんに贈られた弔辞

11時に開式すると、真宗大谷派の住職がお経を読み上げた後、栗原小巻さん、鵜山仁さんの順に弔辞を述べました。

 

栗原小巻さん 弔辞

あまりにも突然のご訃報。ご遺族の皆様の悲しみ、友人の皆さまの気持ち私も同じに胸つぶれる思いです。平さんのご遺影を前にして遥かな頃が思い出されます。

恩師・千田是也主催、劇団俳優座に平さんも在籍しておりました。稽古場で舞台で表現される平さんの演技には「スタニスラフスキー」の言葉を借りれば「感動の瞬間」がありました。

平さんの俳優としての優れた才能、その誠実さ、うちに秘めた情熱、私たち後輩は憧れに近い、尊敬の気持ちをもっていました。若き日の平さんの代表作、大河ドラマ『樅ノ木は残った』では、原作にない初恋の相手として共演させていただきました。

平さんの役を作る力、そして、激しい雨に打たれながらの魂の悩み苦しむ演技に圧倒されました。

「俳優は役の中に真実がある」

平さんは、言葉ではなく、演じる姿で教えてくださいました。

そのほか、多くのドラマでご一緒させていただきました。舞台での共演、浅利慶太氏演出『狂気と天才』、ジョンデイビッド氏演出『オセロ』、蜷川幸雄さんの『三文オペラ』。

舞台を作るとき、女優には葛藤もあれば、感情の戦いもあります。平さんの「一緒にやろう」というお電話で決断しました。

平さんとなら、調和の中で詩のように美しい作品ができる。思い返すと、その作品も場面も鮮やかに感じることができます。

『NINAGAWA・マクベス』は平さんとの最後の共演作になりました。

絶望的な悲しさ、孤独、わたくしたちは、言葉の伝わらないオランダの地で力を尽くしました。のちにプロデューサーは、世界を手に入れた、そんなふうに評価してくださいました。

平 幹二朗さんの芸術への強い意志と純粋な精神は、ご子息、平岳大さんに引き継がれます。平さん、ありがとうございました。どうぞ、安らかに。

栗原小巻

 

鵜山仁さん 弔辞

平さんとは、演出者として4度にわたって付き合いさせていただきました。
最初の「親鸞大いなるみ手に抱かれて」は一人芝居でしたが、1988年、広島市のサンプラザという5000人収容のイベントホールで初日を開け、その後、平さんの出身高校である、同じ広島県の上下高校でいわば、里帰り公演がありました。その際、今は府中市となった、当時の上下町の教育長の女性から伺ったお話が忘れられません。その方は、平さんの同級生でともに演劇部に所属されていたとのことでした。

平さんが高校時代、木下順二作『夕鶴』で、与ひょうの役を演じられたとき、幕切れ、空にかえっていく鶴を見送るシーンで、呆然と立ち尽くすか、がっくりと膝をつくかで大いに悩んでいらしたというのです。

思わず学生服の平さんを想像してしまいましたが、今も昔も全く変わらない演技者としての風貌を感じたことが強く印象に残っています。最後にご一緒したのは、2008年、新国立劇場の芸術監督として『山の巨人たち』という作品を企画し、平さんにご出演いただきました。

演出は、フランスから招聘したジョルジュ・ラウォーダン。彼は、平さんに、「すでに頭のなかにある台詞をただしゃべるのではなく、舞台の時間の流れとともに刻々生まれてくる生きた言葉との出会いを演じてほしい」と、初日の直前まで何度も何度も繰り返していました。芝居のいろはともいえるともいえるダメ出しです。

さすがに平さんもこたえたご様子でしたが、うれしいことに、故・蜷川幸雄さん演出の『リア王』の成果と合わせ、翌年の読売演劇大賞の最優秀男優賞を受賞されました。授賞式のスピーチで、「去年は、二人の演出家に長年の演技の錆を落としてもらった年でした」とおっしゃっていたことが、胸に残っています。

僕自身は、恥ずかしいことですが、前後4回の機会を通してそこまで平さんに肉薄できなかったという悔いがあります。こんな凡庸な演出者であるにもかかわらず、「命のあるうちに、また一緒に舞台を」とお誘いをいただいておりました。残念ながら実現は叶いませんでした。申し訳ありません。

ただ、平さんの演技、声、志は、舞台と客席との境界線だけでなく、生と死の間の壁でさえ、やや突き抜けたところにまで響いているような気がします。その響きは、かけがえない記憶として僕たちの心に残り、だから僕たちの芝居作りは、平さんの影響を受け続けると思います。

そんなわけで、これからも稽古場で、時に平さんを引き合いに出し、いくぶんか平さんめがけてダメ出しをさせていただきます。そしてあきらめることなく、我々の錆を落とし続けたい。そのことがささやかながら、大きな先輩へのご恩返しになればと願っています。平さん、どうもありがとうございました。

2016年10月28日 鵜山仁

平幹二朗さんへの弔電

続いて、弔電の一部が紹介されました。

 

弔電

突然の訃報にとても寂しい思いがします。そして、時が去っていく虚しさをしみじみと感じます。ご生前中は、大変お世話になりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

坂東玉三郎さま
————————————————————————-

私が17歳の時から、映画・テレビでご一緒させていただきました。ろうろうと響き渡る台詞、存在感に魅了されました。感謝の思い思いを込めて、心より安らかなるご冥福をお祈り申し上げます。
合掌

北大路欣也さま
————————————————————————-

ご急逝を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。
シアターコクーンでご一緒させていただきました『グリークス』『ミシマダブル』『唐版滝の白糸』をはじめ、さまざまな舞台でのご活躍の姿が、つい先日のように思いだされ、まだ信じられない気持ちです。文化村一同、生前のご功績に敬意を表し、心よりご冥福をお祈りいたします。

株式会社東急文化村 代表取締役社長・西村友伸さま
————————————————————————-

平 幹二朗様のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。ご遺族の皆様の悲しみはいかばかりかと拝察いたします。私が初めて平様のお姿を拝見したのは、テレビドラマの『三匹の侍』でした。

本当にかっこよく、憧れました。その後のご活躍は目覚ましく、端正な容姿と独特のセリフ術で多くのファンを魅了し、まさに戦後日本の演劇界を代表する存在となられました。

2014年には、毎日芸術賞を受賞され、その表彰式で親しく話をさせていただいたことが、昨日のように思い出されます。

多くの人々に刻まれた生前のお姿を偲び、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

毎日新聞社代表取締役会長・朝比奈豊さま
————————————————————————-

 

平岳大さんの喪主の挨拶

告別式の最後には、親族を代表し、喪主を務めた・長男で俳優の平岳大さんが参列者への挨拶を述べました。

 

喪主の挨拶

本日は、父・平 幹二朗の葬儀にお越しいただきましてありがとうございました。
「生前、父は――」という言葉をいつか自分もいう日がくるだろうなと思っていましたが、こんなに早く唐突に来るとは、思っていませんでした。

皆様におかれましても、このようなお知らせ差し上げるようになったことをお詫び申し上げます。

生前の父は、どんな逆境に立たされても不死鳥のようによみがえってくる人でした。

30年前の肺がんを患ったときも、それから小さな大病を患った時も奇跡のように、小さな奇跡を起こしながら復活を遂げてきました。

これでパワーが衰えるかなと僕は思っていんですけれども、なぜか、病気をすればするほどパワーアップしていくという不思議な人でした。

僕が言うことではありませんが、その原動力になっていたのは、芝居だと思います。そんな平幹二朗をこれまで支えてくださった皆様、本当にありがとうございました。

最後の晩、実は最近、私の妹に子どもが生まれまして、しばらく忙しくしていた父は、その子どもに会えなかったので、先週の金曜日に、私と妻と父とで、妹の家にその子どもを見に行きました。

皆さんご存知かもしれませんが、あまり子どもの扱いに慣れていない父は、遠くのほうから最初は、不思議そうに子どもの顔を見ていたんですが、だんだん慣れてくると、最後には、太い大きな繊細な手で赤ん坊を抱きかかえ、哺乳瓶でミルクをあげていました。

それで気を許したのか、その晩、大好きなワインをたくさんいただきました。

そして、僕と妹と父ができなかった家族の会話ができました。

そして、それにまた気をよくしたのか、さらにお酒をいただき、僕はフラフラの父を抱きかかえて、父の家に帰り、送り届けベッドの上に座らせ、「もう飲むなよと言ったんですが、子どもが顔を見るような可愛い顔をして、「たけ、もう帰りなさい(父・平幹二朗さんのような口調)」と笑っていました。

父は幸せだったと思います。

そんな平幹二朗をこれまで支えてくださった皆様、本当にありがとうございました。

 

共演者からのお別れの言葉

葬儀・告別式後、参列した共演者がインタビューに答えました。

 

中村玉緒さん

「ご子息と一緒にお芝居したかったのでは。今日、ご子息にお会いしましたが、立派に後を継がれると思います」

中村玉緒さん

 

佐々木蔵之介さん

「舞台で父と息子の役をやらせていただきました。大先輩でお世話になりました。圧倒的存在ですが、本当にチャーミングな方でした」

佐々木蔵之介さん

佐々木蔵之介さん

 

桐谷健太さん

「もっとお話を聞きたかったです。ご一緒できて勉強になりました。もっとお会いできると思っていたので、その瞬間その瞬間をもっと大切にしないといけないと思いました。役者って本当に生身の人間がやっているということを教えていただきました」

桐谷健太さん

 

中尾彬さん

中尾彬さん

中尾彬さん

「彼との一番の思い出は、オランダ、イギリスでも上演された『NINAGAWAマクベス』です」という俳優の中尾彬さんは、「日本の俳優さんって枯れるといいなどと言われるけど、あの人は毎日肉喰っているような、イギリスのシェイクスピア役者みたいな、何かそういう感じですね」と語りました。

 

溝端淳平さん

溝端淳平さん

溝端淳平さん

平幹二朗さんと舞台で一緒だったという溝端淳平さん。「大先輩と、板の上でお芝居をさせていただいたのは、自分にとって間違いなく財産になると思います」とコメント。「(平幹二朗さんは)板の上でも格好いいですけど、普段からも凛とされていて品があるし、ただ立っているだけで、腰を掛けているだけで、絵になる方です」と、平幹二朗さんの想い出を語りました。

 

雨の中の出棺

最後に、喪主の平 岳大さんが、位牌を抱いて、「ありがとうございました」と深く一礼。『王女メディア』でも使われた曲、ヘンデル「サラバンド」が流れる中、出棺となりました。

雨が降っていました。

平幹二朗さんは、1933年11月21日、広島市生まれ。

俳優座退団を機に浅利慶太演出の『ハムレット』に出演し新境地を開き、その後は、蜷川幸雄演出の作品にも多数出演しました。主な作品は『王女メディア』『近松心中物語』『NINAGAWA マクベス』など。海外でも高い評価を得た。

一方、自ら主催する「幹の会」でシェイクスピア全作品の上演をライフワークとしていました。

先日、82歳で永眠したことを、所属事務所のケイ ファクトリーが2016年10月24日に発表しました。

1dsc_0137_fotor

 

(取材:草川一、田沢理恵)

葬儀・お葬式を地域から探す