目次
本堂に飾られた祭壇はシンプルな生花祭壇
樹木希林さんの希望で、お葬式は菩提寺の光林寺で
なお、菩提寺での本葬は執り行いましたが、納骨は一度自宅に戻り、後日改めてのようです。
焼香は指名焼香と回し焼香
本葬に当たる今日の葬儀式は、導師である光林寺住職の読経の後、弔辞の奉読、指名焼香、焼香、遺族代表の挨拶という流れで行われました。
焼香は指名された方のみ祭壇の前でお焼香をあげ、列席者は祭壇の左右に並ぶ椅子に腰かけたまま、香炉を順に回して行う、回し焼香でした。
また、お焼香の回数も、1回だけの一回焼香です。
内田裕也さんの声をスマホで聞いて旅立ち
樹木希林さんの長女、内田也哉子さんの夫である俳優の本木 雅弘さんは、開式前のインタビューに応え、樹木希林さんが余命の宣告を受けた後、亡くなる準備をしていた様子や、息を引き取られるときのことを話しました。
樹木希林さんは、もしもの時のことも受け入れていたそうで、「私が先か、裕也が先がわからない話よ」とあっけらかんとしていたといいます。延命につながる治療はしないと決めていたため、基本的には痛みを和らげることを中心に、正常な意識でいられるよう、薬も調整していました。
入院中も毎晩のように「裕也さんに会いたい」とおっしゃっていたという樹木希林さん。最期の時は家族に囲まれ、内田裕也さんの声をスマートフォンで聞きながら旅立ったそうです。
なお、葬儀式の閉式の後には、『朝日のあたる家』(1964年 アニマルズ)を内田裕也さんがカバーした曲が流れました。このほか、『ボレロ』と『モルダウ』も流れました。こちらは樹木希林さんが自宅で好んで聞いていた曲で、カラヤンの指揮のものです。
映画監督、是枝裕和さんの弔辞を文学座同期生の橋爪功さんが代読
『誰も知らない』『万引き家族』など、数々の作品を世に送り出した映画監督の弔辞を、文学座の第一期生で樹木希林さんとも同期でだった、俳優の橋爪功さんが代読しました。橋爪功さんは是枝監督の作品でも、樹木希林さんと共演しています。
昨年の春に樹木希林さんに「『万引き家族』への出演を依頼した時は、まだ脚本も出来上がっていなかったにもかかわらず、あっさりと引き受けてくれました」という是枝監督。この時、不可解な思いもあったといいます。
撮影が終わった時、事務所を訪れた樹木希林さんは、全身の骨に癌の転移が広がっていて「寿命は年内がめど」だと告げ、「あなたの作品に出るのはこれでおしまい」と口にされたそうです。
「訃報に触れ駆けつけたお通夜の席で、3ヵ月ぶりに会ったあなたは、りんとした穏やかな美しさに包まれていました」という是枝監督は、その姿を目にした時、映画の中で血のつながらない孫娘にさせたように、髪とおでこに指先で触れ、樹木希林さんが映画の中で最後に口にした「人が死ぬとはその存在が普遍化すること」という言葉を棺の中に返しました。
「今、妻であり、母であり、姉であり、祖母であるあなたを失ったご遺族の方々の悲しみはもちろん、計り知れないものがあると思います。でも今回のお別れは、あなたという存在が肉体を離れ、あなたが世界中に普遍化されたのだと、そう受け止められる日が、遺された人々にいつか訪れることを心から願っています」と締めくくりました。
オノ・ヨーコさんの弔辞を安藤サクラさんが代読(全文)
樹木さん、こないだニューヨークでお目にかかったばかりなのに、あっという間に旅立ってしまわれ、本当に残念です。
あなたのように頭の切れる人は、日本ではほかに知りません。皆のためにがんばってくださいとお話ししましたよね。
裕也さんもさぞかしショックでしょう。
樹木さんが先に逝ってしまわれるなんて。
お嬢さんのためにもマッチョにならないで。
どうせ死んでしまうんだからなんて思わないで。
ご自分の身体を守って、がんばってください。
お酒飲まない、タバコ吸わない、やってみてください。
私もジョンが死んでしまってから、それがどれくらい私の息子のショーンに影響を与えたかということに気がつきませんでしたが、ショーンは父親がいないことを、とても強く感じていました。
他の人のためにも自分を大事に。
樹木さんと裕也さん。
I LOVE YOU
ヨーコ
樹木さんが大切に保管していた内田裕也さんからの手紙。遺族代表、内田也哉子さんの挨拶(全文)
高いところから失礼いたします。喪主に代わって一言ご挨拶させていただきます。
本日は足元の悪い中、また大変お忙しいところ、母、内田啓子の本葬儀にご参列いただきまして、誠にありがとうございます。
私にとって母を語るのに、父内田裕也なくしては語れません。
本来ならこのような場で語ることではないのかもしれませんが、思えば内田家は数少い互いへのメッセージ発信をいつも大勢の方々の承認のもとに行っていた奇妙な家族でした。
また、生前母は、恥ずかしいことほど人前でさらけ出すという厄介な性分だったので、皆さまが困らない程度に少しお話しさせてください。
私が結婚するまでの19年間、うちは母と私の二人きりの家庭でした。
そこにまるで、象徴としてのみ君臨する父でしたが、何をするにも常に私たちにとって大きな存在だったことは確かです。
幼かった私は不在の父の重すぎる存在に押しつぶされそうになることもありました。
ところが困った私が、なぜこういう関係を続けるのかと母を問い詰めると、平然と「だってお父さんにはひとかけら、純なものがあるから」と私を黙らせるのです。
自分の親とはいえ、人それぞれの選択があると頭では分かりつつも、やはり私の中では永遠にわかるようもないミステリーでした。
ほんの数日前、母の書庫で探し物をしていると、小さなアルバムを見つけました。
母の友人や、私が子どものころに外国から送った手紙が丁寧に貼られたページをめくると、ロンドンのホテルの色あせた便箋に目が止まりました。
それは母がまだ悠木千帆と名乗っていたころに、父から届いたエアメールです。
「今度は千帆と一緒に行きたいです。結婚一周年は今度、帰ってから二人きりで蔵王とロサンゼルスというのも世界中にあまりない記念日です。この一年、色々迷惑をかけて反省しています。裕也に経済力があればもっとトラブルも少なくなるでしょう。
俺の夢とギャンブルで、高価な代償を払わせていることはよく自覚しています。
突き詰めて考えると、自分自身の矛盾に大きくぶつかるのです。
ロックをビジネスとして考えなければならない時に来たのでしょうか?
最近、ことわざが自分に当てはまるような気がしてならないのです。
早くジレンマの回答が得られるように祈ってください。
落ち着きとずるさの共存にならないようにも。
飯、この野郎、てめえ。でも本当に心から愛しています。
1974年10月19日ロンドンにて
裕也」
今まで想像すらしなかった、勝手だけれど父から母への感謝と親密な思いの詰まった手紙に、私はしばし絶句してしまいました。
普段は手に負えない父の、混沌と苦悩と純粋さが、妙に腑に落ち、母が誰にも見せることなくそれを大切に自分の本棚にしまってあったことに、納得してしまいました。
そして長年私の心のどこかで許し難かった、父と母の在り方へのわだかまりが、スーッと溶けていくのを感じたのです。
こんな単純なことで、あれほど長年かけて形成された思い塊が溶け出すはずがないと、自分に呆れつつも。
母が時折自虐的に笑っていました。
「私はよそから内田家に嫁いで、本木さんにも内田家を継いでもらって、皆で一生懸命家を支えてるけど、肝心の内田さんがいないのよね」と。
でも私が唯一、親孝行ができたとすれば、本木さんと結婚したことかもしれません。
時には本気で母の悪いところをダメ出し、意を決して、暴れる父を殴ってくれ、そして私以上に両親を面白がり、大切にしてくれました。
なんでもあけすけな母とは対照的に、少し体裁の過ぎる夫ですが、家長不在だった内田家に、静かにずしりと存在してくれる光景は、いまだにシュールすぎて、少し感動的でさえあります。
けれどもこの絶妙なバランスが欠けてしまった今、新たな内田家の均衡を模索する時がきてしまいました。
怖気付いている私は、いつか言われた母の言葉を必死で記憶から手繰り寄せます。
「驕らず、人と比べず、面白がって平気に生きればいい」
まだたくさんすべきことがありますが、ひとまず焦らず、家族それぞれの日々を大切に歩めたらと願っております。
生前母は、「密葬でお願い」と私に言っておりましたが、結果的に光林寺で、このように親しかった皆さまとお別れができたこと。また、それに際し、たくさんの方々のご協力をいただく中で、皆さまと母の唯一無二の交流が垣間見えたことは、遺された者として大きな心の支えになります。
皆さまお一人お一人からの生前のご厚情に深く感謝しつつ、どうぞ今後とも故人同様お付き合いいただき、ご指導いただけますことお願い申し上げます。
本日は誠にありがとうございました。
樹木希林さんの葬儀式の会葬礼状
参列者には、樹木希林さんの写真を印刷した会葬礼状が配られました。
樹木希林さんの葬儀式に参列した方々
追記(2019年4月3日)
2019年3月17日、樹木希林さんの夫、内田裕也さんが、肺炎のためご逝去され、4月3日、お別れ会“Rock’n Roll葬 ”が東京・港区の青山葬儀所で執り行われました。 内田さんの戒名には「響(きょう)」という字がありました。樹木希林さんの「鏡(きょう)」と同じ響きです。 ここでも、お二人の強いきずなを感じないではいられません。
(取材・文/小林憲行)