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30年囚われ続けたバブルの幻影。葬儀業界は呪縛から解かれ、新たな発想すべき
葬送ジャーナリスト 碑文谷創
明治期に起源をもち、産業としては高度経済成長以降に発展した葬祭業。「社会儀礼色が強まった時期に発展した産業であるがゆえに、葬祭業には社会儀礼色が染みついている」と語るのは、葬送ジャーナリストの碑文谷創氏。葬儀が個人化を始めた1995年以降、産業としては転換期に入ったにもかかわらず、それから30年経過した現在も、「出自の呪縛の中にある」と、碑文谷氏はとらえている。そろそろ新しい観点で考え直すべき時期にきた今、氏が期待しているのは、30代40代の現場の第一線で働く人たちだ。 「彼らに期待するのは、変化を見てきた人たちであるからこそ」。そう語る理由について、葬祭業界が置かれてきた状況に対する分析とともにお聞きした。
2020年1月17日
写真/荻山拓也 取材/北千代・小林憲行
目次
バブル期の葬儀こそが、むしろ異様だった
現在、業界では葬儀の規模縮小が大きな課題として語られています。
2019年に規模縮小化は一段階を超えて一層拍車がかかったという実感があります。
全国平均では、会葬者は40〜60人に減少していましたが、東京では15人前後は当たり前、10人未満という葬儀も増加しています。現役世代の葬儀は100人を超えていますが、80歳以上の死亡者が全体の63%を占め、高齢化の影響が大きいです。
こうした変化が全国的に起こっていますし、変化が緩やかな地域でも今や30〜40名の葬儀が主流です。この変化は確かに、大きいものです。ちなみに、バブル崩壊の1991年には、社葬ではなく個人による葬儀でも、会葬者200〜300人規模が主流でした。これは、葬儀を迎えるマインドが大きく変化したことを意味しています。しかし、バブル景気の時代がむしろ「異様な時代であった」というのが私の見解です。
「異様な時代」というのはどういうことでしょうか?
1990年頃は、地域共同体が弱化し、企業共同体が強化された時代でした。高度経済成長によって、葬儀の社会儀礼化が進み、会葬者のうち、亡くなった方ご本人を知る人は3割にも満たなかったのが、バブル崩壊までの葬儀です。
これは、長い葬儀の歴史から見ると、異常です。つまり、ご遺族の取引関係者などが、会葬者として弔問するので、ご本人を知らないわけです。ですから、極端な言い方をすると「悲しんでいない人」が会葬者の主を占めていました。ご遺族は、本人を知らない会葬者に失礼がないようにと気を遣い、業者もその気遣いをサポートすることが仕事でした。親しい人たちにとっての真の葬儀とは、実質的には葬儀が終わってから仏壇の前で行われていたのです。
こうした「異常な」葬儀が反発を受けるようになるのは、ある意味当然のことではないでしょうか?例えば、通夜が大きく変わりました。現在は、通夜と、葬儀・告別式では、どちらも色物の袈裟を着た僧侶が読経し、遺族も弔問客も喪服で臨みます。同じような儀式が2回繰り返されているようなものです。
このような形式は、戦後の高度経済成長期の葬儀に始まったもので、それ以前は、通夜は身近な人たちだけで行うものでした。高度経済成長期以前は、亡くなってから葬儀を出す前の晩までを通夜として、遺族が「医学的な死」のタイミングから、「心理的な死」を受け入れるまでの時間でした。
通夜では遺族が喪服を着ることはなく、僧侶も通常の黒衣で訪れました。近所の人たちが平服で見舞いに訪れることもありましたが、通夜に「香典」との表書きで持参しようものなら「ものを知らない」と言われてしまいます。表書きを「通夜見舞い」「病気見舞い」などとしたのは、香典というのが、遺族が通夜の時間を過ごし、死を受け入れて初めて出すものとされてきたからです。
家族葬への動きは消費者主導。その背景に目をこらして見えてくるものとは
通夜は遺族が故人の死を受け入れるための、大切な準備の時間だったのですね。
ところが高度経済成長期になると、翌日の葬儀・告別式に出席すると、仕事を1日休まなければならないが、通夜であれば業務終了後の数時間で足りるという、会葬者側の事情で通夜が変質します。通夜に人が集まるようになって、互助会や葬儀社が、通夜を盛り上げるために、実質は「通夜・告別式」を行うようになった。そして、この「通夜・告別式」と「葬儀・告別式」の二本立て形式が、バブル崩壊後、家族葬が登場するまで、スタンダードとなったわけです。こうした時代背景を念頭において現在のお葬式の規模の縮小を見ると、全く違う景色が見えきます。
バブル崩壊を経て、日本の経済環境は一変しました。それでもしばらくはまた、景気が戻るのではないかという希望的な観測をもって、楽観していたのではないでしょうか?ところが1995年になると不況の長期化が明確になり、日本の成長神話は崩壊しました。そのころ葬儀業界においても、「家族葬」が登場したのです。
家族葬を主導したのは、消費者です。地域共同体、企業共同体、親戚関係といったコミュニティが、みな崩れてきたのもその頃のこと。以前は、コミュニティが葬儀の主導権を握って、受付から何から手伝ったものでしたが、バブル崩壊後、葬儀社が主導権を握らざるを得なくなってきたのです。2008年のリーマンショック以降、葬儀の個人化は顕著になりました。
それと同時期に、会葬者が激減しました。200〜300名の会葬者が集まった時代の葬儀費用は200万〜400万円がボリュームゾーンでしたが、お香典も集まったため、遺族の実質の自己負担は50万円前後でした。ところが会葬者が集わない、お香典のない現在の遺族の平均自己負担額は、70万円程度とバブル期の負担額を超えています。葬儀の価値を認めないから安い葬儀に消費者が移行しているという見方もあるでしょうが、葬儀社に支払う額が下がっていても、遺族の自己負担額はむしろ上がっている事実があります。
家族葬が登場したことで、それに対するバブル期までの葬儀を「一般葬」と呼ぶようになりました。これはけしからんと、私は思っていますよ。なぜなら、消費者主導で生まれた小規模葬儀に家族葬と名付け、バブル期の郷愁に一般葬と名付けて、どちらにも理念がない。葬儀のあり方を考えたのではなく、価格の下落に対応しようとして言い出したことだからです。
そして、葬儀社としても、遺族に直面しなければならなくなりました。それまで遺族の周囲にいた、親類、地域、企業、宗教者のコミュニティが崩壊し、遺族の家族葬志向が進むと、気づくと遺族の一番そばにいるのは、葬儀社だけになってしまったからです。
そのため、従来の葬儀社にとっては、式の段取りや流れ、費用、規模が一番重要だったのですが、遺族の立場から一番必要なのは、故人の死亡による戸惑いに対するケアです。昔から、サポートを必要とする遺族はいたけれど、葬儀社はそのケアに慣れていませんでした。でも今は、葬儀社でもその食い違いに気づき始めたんです。
本当に必要なサポートを提供できなかったアマチュアがプロだと錯覚していた30年。それが、高度経済成長期の葬儀だったと私は思っています。今でもそれに気づいていない葬儀社があります。
家族葬とは、高度経済成長期に生じた変容に対する反動ということなのでしょうか?
死者との関係性というのは、人間関係のあり方です。
家族が少数化、分散化したことで、かつての人間関係のあり方とはずいぶん違ってきました。故人への思いが違ってきているのも当然でしょう。一日で行なう家族葬であっても、葬儀の前日までの時間に、故人の柩の周りに遺族が自然に集まってくるような、ベーシックな関係性が残っている家族であれば、柩のそばで過ごす時間に、ちゃんと通夜の機能が伴っていると考えられます。
また、単独の状況で亡くなった「ひとり死」においても、死者と遺族の関係性のあり方は多様です。単独世帯が増加している現状では、たまたま階段からの転落による事故死や突発性の病気などで、ひとりの状態で亡くなっても、その瞬間以外の時間には、遺族との濃い関係性がある人も多い。ところが一方では、病院、施設、自宅いずれの場所で死亡した場合でも、遺体の引き取り手がない人も、推計で年間5万〜6万人はいるのではないでしょうか。
ただし、身元不明者はさほど多くはないのですね。多くは相続との関係で結果的に甥や姪などのやや遠い親類が喪主となり葬儀を行なっていると考えられます。つまり、現在の葬儀の変容は、人間関係のあり方の変化をも示しているのです。
血縁の時代の終焉。低予算の葬儀ほど、能力の高い葬祭ディレクターが担当するような発想が必要
こうした時代、葬儀社には何が求められているのでしょうか?
今や葬儀においては、誰もが血縁に頼る時代は終わり、個々の人々のさまざまな人間関係に基づいて、血縁を超えた死者の周りの人々が、死者を受け止め、死者を送る儀式になりました。
葬儀とは外形の話で、死を悼むという基本に対しては、血縁を超えた、故人が独自に築いた人間関係が入ってきています。その関係性を丁寧に見極めて、葬儀を組み立て、死者の周囲の人々をいかにサポートするかが、葬儀のプロの仕事になっているのです。遺族とのコミュニケーションも満足にとれなくては、葬儀のプロとはいえません。
私が葬祭ディレクター技能審査制度に関与した時も、死者を抱えた遺族や周辺の人々に、どういうサービスを提供できるかを考えられることを重視しました。決まったマニュアルや料金別のコースの有無にかかわらず、葬祭サービスとは本来、個々に選択されるものや、その選択をサポートするものであるべきです。
近年は経済格差がはっきりしてきているので、葬儀社の売上視点での安い料金でも、遺族の負担が大変な場合もあります。出す方にとってはなけなしの30万円かもしれない。そのとき、祭壇の大きさや棺のランク、花、料理といった量的なサービスに費用をかけられなくても、遺族に寄り添った最低限のクオリティのサービスは提供しなければならないのです。ネットで料金比較して探した、安い料金ではあるが低クオリティなサービスでは、不満が出ざるを得ません。
量的な発想をやめて、個々の遺族にとって本当に必要なサービスは何か、そしてそこで満足するシステムを考えられないと、無理が出てくると思います。個々の遺族の希望は違う。予算のなかで何を生かし、何を削るのか。そうしてクオリティを保つことを考えるのがプロというものです。これからの葬儀は、プロの能力が求められる時代になります。低予算の葬儀ほど、能力の高い葬祭ディレクターが担当するような発想に変えていかなければなりません。
私は、葬儀社は安い予算で葬儀を請け負うべきだと言っているわけではありません。必要なサービスに必要な料金をとって良いのです。遺族が必要とするサービスを提供したのならば、たとえ1,000万円かかろうとも、それで良い。でも、支払える限度はそれぞれですし、人間関係もそれぞれです。亡くなった方をとりまく要因は複雑ですから、いつも同じ葬儀と考えてほしくない、乱暴に「一般葬だから」「家族葬だから」と振り分けるような考え方をしないでほしい、と言いたいのです。
葬儀社としては、消費者に多種多様な選択肢を与えて、それぞれの希望に応じて選べるようにすることが必要です。ビールだって、同じ価格帯で、個々の満足度に応じて、あれほどまで多くの選択肢があります。内容が同じだと、消費者は安いほうへいく。それだけのことです。葬儀という仕事が社会的にどう位置付けられていくか、そこを考えて、社会的な位置に見合った価値を考える人こそが、葬祭ディレクターなのです。
現場の問題に悩み、解決を目指す。若手の活躍に期待
最後に、現在の葬儀業界において、何かよい兆しは見られますか?
40代以下の人たちが、今、現場で抱えている問題を、経営に反映していこうとしています。彼らは社会儀礼化したバブル期の葬儀を知りませんし、遺族と相対しなければ葬儀ができないことを、時代に伴い、肌身で知っています。そういう彼らが自分たちの視点で、今必要とされているサービスや葬儀のあり方を構築していけるようになりました。悩みながら取り組んでいる人たちは、大勢いますよ。その姿勢をスタンダードにしていってほしい。
葬儀業界は、産業としてはもう転換期に入ったのですから、新たな観点で考え直すべき時期にきています。葬儀業界の中では、高度経済成長という出自の呪縛はもう終わりにしなきゃいけないんじゃないかと思います。
経営陣がきれいごとの理想論を掲げるだけでは、やっていけない時代になりました。現場で感じたことをもとに、必要なサービスを組み立てていく、現場の力こそに期待しています。
「目の前の故人はどういう亡くなり方をしたのか」「遺族はどのような人たちか」「遺族はどんなことに困っているか」そうした一つ一つのケースに必要なことや、満足するサービスについて突き詰めて考える力こそが、地に足をつけた経営を可能にするのではないでしょうか。
現場にとっても、自分たちのやってきたことが会社にフィードバックされて、意味のあることや、役立つことになっているという実感が必要です。そのあたりは、製造業の考え方と全く変わりありません。今の葬祭業の多くは、依然として、高度経済成長期やバブル期の葬儀を良いものとしてとらえ、それ以降の葬儀を悪いものと考えている。でも、それは虚しい話です。新しく葬儀を見直し、遺族がどんな事態に立ち向かっているのかを知った上で、必要とされるサービスを考える。
本当は、昔もそういうことを考えていた人たちはいましたし、彼らは、葬儀とは難しい仕事だと感じていたはずです。そうした尊敬できる人たちがたくさんいたから、今の葬儀はめちゃくちゃにはなっていないんです。だから、若い人たちにも期待して良いと思います。現場を知っているスタッフをどう位置づけるかによって会社は変わります。
現場の声が届き評価される会社は、サービスのクオリティを高くする力がある。福祉葬にかかる費用は、自治体によって異なるものの、約20万円前後です。でも、今はそれ以下の費用の葬儀があります。それは、どういう了見なのだろう、本来必要なサービスまでも削ってしまっているのではないか、と思います。
必要な内容の葬儀に対する、必要なコストはあるんです。人件費をかけないとできない仕事だという意識が必要だと思いますね。請け負った仕事には責任があります。遺族にとってなくてはならない仕事をして、評価をされる。すべきことまでやらないのは、プライドがないのではないかと思いますね。
ありがとうございました。
碑文谷創
葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)。 1946年1月19日生まれ。元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)。現在はフリーランスのジャーナリストとして死と葬送をテーマに評論活動を展開。
「ライフエンディング業界のトップインタビュー」は超高齢社会に向けて先進的な取り組みをしている企業のリーダーにインタビューし、これからの我々が来るべき未来にどう対処し、策を練っていくかのヒントを探る企画です。普段は目にすることができないライフエンディングの最先端の場で、どのような取り組みが行われているのか?余すこと無くお届けします。