元衆議院議員で、今月9日に亡くなった加藤紘一氏の、自由民主党と加藤家の合同葬が、2016年9月15日、東京・港区の青山葬儀所で行われました。会場には関係者をはじめ、1,300名が訪れ、故人との別れを惜しみました。喪主は加藤氏の妻、愛子さん、葬儀委員長は自民党総裁の安倍晋三首相が務めています。式は宗教にとらわれない形で、施行は燦ホールディングス株式会社の中核葬儀社、公益社が行っています。
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儀仗から始まるお葬式
開式に当たっては、元防衛庁長官だった加藤紘一氏に敬意を表するため、陸上自衛隊第302保安警務中隊による儀仗が行われました。演奏は、陸上自衛隊中央音楽隊です。参列者も起立し、黙祷を捧げました。
安倍首相弔辞「YKKとして、大きな旋風を巻き起こし、自民党政治に新しいダイナミズムを与えていた」
続いて、葬儀委員長内閣総理大臣、自由民主党総裁の安倍晋三首相が弔辞を奉読しました。
安倍首相の弔辞
元内閣官房長官、元防衛庁長官故加藤紘一先生の自由民主党、加藤家合同葬に臨み、ご霊前に謹んで哀悼の辞を捧げます。 一昨年ミャンマーを訪問された際に、体調を崩され、その後は静養されていらっしゃったと伺っていましたが、強い精神力をお持ちの加藤先生のこと、きっと回復されて、これからも我々にご指導いただけるものと信じておりました。 地方創生という安倍政権の最重要課題を、先生のお知恵とお力添えをいただきながら、進めてまいりたいと、まさにこの時に、先生の訃報に接し、文字通り、驚きを禁じえませんでした。 先生のお人柄にひかれ、多くの薫陶を受け、そしてこのたびのご逝去を悼む、多くの方々が本日、お集まりになっております。昭和14年6月17日加藤清三先生のご子息として、山形県鶴岡市で、お生まれになった先生は、東京大学法学部を非常に優秀な成績でご卒業後、外務省に入省し、外交官として在台北大使館、在ワシントン大使館勤務をご経験され、世界を舞台にご活躍されました。 先生が24歳の時に、加藤清三先生が他界され、そのご遺志を受け継ぎ、昭和47年12月第33回衆議院議員総選挙において、旧山形県第二選挙区から国政に挑戦し、見事初当選を果たされました。わが党の機関紙、『自由民主』の記事で先生は初出馬の時のポスターと共に、手記を寄せられています。 農業を営む若い支援者の方々と共に、ポスターの中でほほ笑む、若き日の加藤先生のお姿。その笑顔が国民と共に歩むお姿として、非常に印象深かったことを、覚えております。 以来、当選回数は13回、38年余の長きにわたり、華麗にそしてさわやかに国政の場でご活躍をされました。私が初当選を果たした平成5年の当時は、先生は当選8回を数え、わが党の大きな柱という存在でした。いわゆるYKK(ワイケーケー)として、大きな旋風を巻き起こし、自民党政治に新しいダイナミズムを与えておられました。 この国のあり方を地方からリベラルな視点で考え続けた政治家として、与野党を問わず、多くの国会議員から、尊敬の念を集め、そしてそのお人柄に多くの人々が魅了されました。 多岐にわたるご功績は枚挙にいとまがありません。 政府では内閣官房長官、防衛庁長官。党にあっては幹事長、政務調査会長を歴任されました。特に幹事長、政調会長を務められた時期は、自民党、社会党、さきがけの3党による連立政権の時期という、非常な困難な時代のかじ取りを粉骨砕身、お務めになられました。 先生の政治家としての信念は常に、弱者の立場を考えて政治を行うということであったのではないか。 振り返って今、そう感じています。 先生が初当選をされた後、まず取り組まれたのは障がい者問題でした。聴覚障の方に自動車の免許の受験資格を認めるよう働きかけをされ、これを見事に実現されました。 ご地元の農家の方から、聴覚障害を持った息子が免許を取り、「トラクターが運転できるようになった。おかげで性格も明るくなった」と大いに喜ばれ、先生は政治家としての嬉しさを実感したと伺っております。 「政治家の使命は地元に行って、国政を論じるのではなく、国政に向けて聴くことなのです」という先生の言葉は、我々自由民主党所属の国会議員全員が、肝に銘じなければならない言葉であります。今後のあるべき日本の社会、国家像をつくるため、常に国民と心を一つにしていた先生を失ってしまったことは本当に、本当に残念でなりません。 しかしながら、我々には、先生のご遺志を受け継ぎ、地元の皆様の思いを満身に受けて、活躍されている加藤鮎子さんという、新しい仲間が育っております。 鮎子さんは、子どもを産み、育てやすい社会をつくる。お年寄りが安心して暮らせる社会をつくる。若者が夢と希望を持てる社会をつくるという、3つの思いを掲げて、加藤紘一先生の若き日と同じように、全力で走り回っています。 この3つの思いはまさに、安倍政権で掲げた一億総活躍社会の実現そのものであります。 加藤紘一先生の背中を見て育った鮎子さんはすでに、困難な選挙を見事に、乗り越え、党において国会において、注目を集めています。 先生の志を受けついた鮎子さんは、地元の期待に応え、間違いなく日本の未来を担う、政治家となられることでしょう。 私も自由民主党総裁として、私が若き日に先生からご支援いただいたように、鮎子さんの活躍を後押ししていくことを、お誓い申し上げます。 これからは先生と苦楽を共にされ、先生を支えてこられた、最愛の奥様と、ご家族の皆様をいつまでも、お見守りください。 ここに改めて、加藤紘一先生のご功績と、お人柄を偲び、心からのご冥福をお祈り申し上げます。 平成28年9月15日 内閣総理大臣 自由民主党総裁 安倍晋三
加藤紘一氏から山崎拓氏への遺言
加藤紘一氏、小泉純一郎元首相と共に、YKKの一人である、元副総裁の山崎拓氏は、弔辞の中で、当時を振り返った自著、『YKK秘録』(山崎拓著・講談社)の記述の内容について、主役である加藤氏の了解を得られなかったことを謝罪しました。
そのうえで、「YKK時代というネーミング自体が君の発案であり、今の政界には見られないような躍動感のある時代というものがあったとすれば、それはすべて君の書いた脚本を君自身が演出したもの」「僕など、脇役の一人として、ひたすら追随した」と語りました。
また、2年前、加藤氏がミャンマーに旅立つ直前に、一緒に赤坂でてんぷらそばを食べたときの話として、「君は本当に憲法九条改正に反対か?」と、長年懐疑的に思っていたことを、思い切って尋ねたところ、加藤氏は「うん」と答えて、「一言一句もか?」とさらに尋ねると、「そうだよ。九条が日本の平和を守っているんだよ」と断言したそうです。
振り返ると、これが「君の僕に対する遺言」だったと言います。
なお、合同葬にはYKKのもう一人、小泉純一郎元首相も参列しています。
また、日本経済団体連合会名誉会長、新日鐵住金名誉会長の今井敬氏は「頂点は極められませんでしたが、リベラル保守の旗頭として、活躍された先生は日本の政治史に多大なる足跡を残されました」と語り、故人の冥福を祈りました。
中華人民共和国駐日大使程永華氏、コロンビア大学名誉教授ジェラルド・カーティス氏も弔辞を捧げ、国際的に活躍した故人との別れを惜しみました。
亡くなる時間まで、10年後20年後の世の中の流れを思い描いていた
加藤氏の妻、愛子さんは、喪主の挨拶に立ち、加藤氏が何よりも熱心だったのは「勉強と研究ではなかったか」と、亡くなるときまで、国際情勢など活字の切り抜きをもとに、将来の世の中の流れを思い描いていたと語りました。
加藤愛子さんの挨拶
本日はお忙しい中、たくさんの皆様のご参列により、無事、主人を送り出すことができることを大変ありがたく、感謝申し上げます。 夫はこの世に生を受け、77年と84日目の9月9日午前0時45分、静かに黄泉の国へ旅立ちました。これまで長きにわたりお世話になりました各方面の皆様方に、深く深く、心より御礼を申し上げます。 夫は人と交わり、社会や政治を論じ、歌を歌い、飲み交わすことをこよなく愛しておりましたが、それよりもっと、もっと熱心だったのは、勉強と研究ではなかったかと、最近家族は再認識しているところでございました。 闘病中、丹念に切り抜いた印刷物が残っておりますが、国際情勢をはじめこれと思う活字のあれこれを材料として、10年後20年後の大きな世の中の流れを思い描いては、その考えを詰め続けていたことに、家族は強く胸を撃たれました。 もう少し、体をいたわってくれたらと悔やむことも多々ございますが、ひとたびやりたいと思ったことにまい進する姿勢は、全く変わることなく、とうとう、病魔に負けてしまいました。 私たち家族は、9月9日の亡くなる時間まで、この姿勢を貫いたことを見届け、これが夫、父の生き方であると納得するほかありません。 しかし、思う存分生きたと思います。 この先は、4人の子供とその家族たちと、夫の亡くなりましたことを一日も早く受け入れて、しっかりと歩んで参りたいと存じます。 至らぬ家族ではございますが、皆様には今後とも、変わらぬご指導ご鞭撻を賜りますよう、心よりお願いたします。 最後になりましたが、本日ご参列の皆様に深く深く、感謝の気持ちをお伝えさせていただきたいと思います。 つたないご挨拶でございますが、どうぞ皆様、今後ともよろしくお願いいたします。 大変お忙しい中、ありがとうございました。
弔銃でお見送り
参列者の献花が終わると、加藤氏の遺骨は陸上自衛隊の儀仗の中、青山葬儀所を後にしました。弔銃が3回、空に撃たれました。
(小林憲行)