2016年7月26日に逝去したピアニスト、中村紘子さんの「偲ぶ会」および「お別れの会」が、四十九日にあたる9月12日、東京・港区にあるサントリーホールで開かれました。大ホールでは、故人を偲び捧げられる献奏がコンサートのようでした。
また、小ホール ブルーローズでは、中村紘子さんの業績を記念品や写真で展示、その軌跡をたどります。主催は、株式会社ジャパン・アーツ(東京都渋谷区)です。
中村紘子さんを偲ぶ会
今年の7月26日、大腸がんのため亡くなった中村紘子さん。
サントリーホール 大ホールで開かれた「偲ぶ会」には関係者約850人が集う中、サントリーホール館長であり、また中村紘子さんと幼いころから共に音楽を学んできたというチェリスト、堤剛さんをはじめ、36年間にわたってニューイヤー・コンサートで共演を続けてきた東京交響楽団など、故人と共に音楽の道を歩んできた人々が、中村さんが好きだったという曲を奏で、献じました。
堤剛さんの献奏(画像提供:サントリーホール)
松本美和子さんと東京交響楽団のアヴェ・マリア(画像提供:サントリーホール)
また、衆議院議員の細田博之さんや、中村紘子さんが10代のころ初めての海外演奏で指揮を務めたという指揮者の外山雄三さん、生前から交流の深かった日本文学研究者ドナルド・キーンさんが、それぞれの思いを込めて、追悼の辞を読みました。
ご自身でもピアノを演奏するという細田さんは、昨年、中村紘子さんが中心となって設立された日本パデレフスキ協会の会長にも就任されています。就任の経緯について弔辞の中で、「中村紘子さんに『これをやってください』と言われると、もう断れないんですね」と笑った。
「偲ぶ会」の最後には、今年4月にサントリーホール30周年に寄せて収録した中村紘子さんの最後のインタビューの模様も放映されました。
舞台に向かって左上の写真は、中村紘子さんデビュー50周年を記念したCDのジャケットに使用したものです。
偲ぶ会の式次第
開会の辞・黙祷
追悼の辞 (細田博之/衆議院議員)
バッハ:無伴奏チェロ組曲より第4番 「プレリュード」 堤剛(チェロ)
追悼の辞(外山雄三/指揮者)
追悼の辞(ドナルド・キーン/日本文学研究者)
海外からの追悼メッセージ放映
弔電奉読
アルビノーニ:アダージオ 大谷康子(ヴァイオリン)、東京交響楽団
シューベルト:アヴェ・マリア 松本美和子(ソプラノ)、東京交響楽団
バッハ:G線上のアリア 東京交響楽団
中村紘子さん最後のインタビュー映像放映
司会:檀ふみ
中村紘子さん「お別れ会」。皇后陛下から供花も
小ホール ブルーローズを会場に開かれた、「お別れ会」では、中村紘子さんが生前、愛用した記念品の数々や、写真が展示されました。
祭壇は、中村紘子さんが大好きだったという白い花を中心に、2,000本の花を飾っています。
会場には、中村さんの夫で、芥川賞作家の庄司薫さんの書「夢」を記した色紙が置かれ、参会者が中村紘子さんへのメッセージをつづりました。
皇后陛下からも花が贈られました。中村紘子さんのコンサートにもいらしていたそうです。
中村紘子さんのレコードやCD、また記念の品々が飾られています。
中村紘子さんの幼少期や、在りし日の姿が、写真と映像で紹介されています。
2008年の紫綬褒章と並んで、7月26日に送られた、旭日中綬章も会場に飾られました。
中村紘子さんの略歴
中村紘子は早くから天才少女ピアニストとして注目され、1960年NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢され華やかにデビュー。ジュリアード音楽院留学を経て1965年に第7回ショパン・コンクールで入賞。以後、日本のピアニストの代名詞となり、国内外のオーケストラとの共演、世界各国でのリサイタルなど3800回を超える演奏会を通じて聴衆を魅了し続けました。レコーディングも活発に行い1968年にソニー・レコードの専属第1号アーティストになって以来、50点余りの録音を残しました。1982年からはチャイコフスキー・コンクール、ショパン・コンクールなど数多くの国際コンクールの審査員、1994年から15年間にわたって浜松国際ピアノコンクールの審査委員長も歴任。「難民を助ける会」や日本赤十字などを通じてのボランティア活動にも積極的な役割を果たしました。デビュー50周年を迎えた2009/2010年シーズンは80回を超える「デビュー50周年記念コンサート」を実施。2015年には東京交響楽団と36年連続37回目となるニューイヤーコンサートに出演。病気と闘いながら、2016年4月には東京交響楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲第24番を共演。5月8日に兵庫県洲本市(淡路島)で行ったリサイタルが最後の公の場での演奏でした。
夫の庄司薫氏は「誕生日(7月25日)をむかえる日も、このところみつけた、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだといって、興奮していました。ぼくも、それを聞きたいと熱望していました。残念です。」とコメントを出しております。
株式会社ジャパン・アーツ HPより
(小林憲行)