“世界のニナガワ”のお通夜。実花さんの写真でお別れ

2016年5月12日、肺炎による多臓器不全のため亡くなった演出家、蜷川幸雄さんのお通夜が、15日午後6時、東京・港区の青山葬儀所で行われました。

日本を代表する演出家として、国内外で幅広く活躍した故人。関係者やファンら1,576名が訪れ、最後の別れを告げました。

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病床からも演出する“世界のニナガワ”

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シェイクスピア劇などをはじめ数々の作品を世に出し続けていた蜷川さん。その活動は日本国内はもちろん、海外でも高い評価を得て“世界のニナガワ”と呼ばれていました。2004年度文化功労者、2010年度文化勲章を受章しています。

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長女の実花さんはインタビューに応え、蜷川さんが「生涯現役にこだわっていた」と言います。

先月26日に亡くなったシャンソン歌手、戸川昌子さんの最後の舞台も、蜷川さんの音楽劇『靑い種子は太陽のなかにある』でした。

遺影は、実花さんの撮影

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祭壇中央に飾られた遺影から、舞台装置をバックに蜷川さんが見つめています。

この遺影は長女、実花さんの作品です。写真家、映画監督として活躍する実花さんが、昨年9月に上演された、『NINAGAWA マクベス』の稽古場で撮影しました。

ちなみに、妹尾河童さんが担当した『NINAGAWA マクベス』の舞台美術は、仏壇をモチーフにしています。

蜷川さんの想い出を語る参列者

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青山葬儀所には、蜷川さんの死を悼んで、大勢の関係者が集いました。

通夜に参列した、AAA(トリプル・エー)の西島隆弘さんは、「お前は早く音楽を辞めて、俳優の世界に来いと、もし人生の荒波に出会った時は、全力で西島君のそばについて守るから、早く一緒に仕事をしよう」と言っていただいたと、「言葉一個一個がすごく重たくて、大きくて、でもすごい優しくて、守ってくれるというか、感謝でしかない」と、蜷川さんの想い出を語りました。

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また、俳優の西岡徳馬さんは、「もう一回、芝居をやる」という蜷川さんとの約束を果たせなかった。「つまんねえな、逝っちゃってという感じ」と心境を吐露しました。また、蜷川さんは大根役者だったと言われるけど、「俺は蜷川さん、いい役者だったと思うよ」とフォロー。でもそれ以上に、「素敵な演出家だった」と、別れを惜しみました。

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翌16日に行われたお葬式の模様は、【行ってきました】蜷川幸雄さんご葬儀。皆で送る「合同葬」でした に掲載しています。

5月25日には最後の舞台が公開

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蜷川さんが病室でもその演出を考えていたという舞台、彩の国シェイクスピア・シリーズ第32弾『尺には尺を』が2016年5月25日、初日を迎えました。

会場には献花台、記帳台も設置され、訪れた人々が蜷川さんを悼みました。

蜷川幸雄さん略歴

1935年10月15日、埼玉県川口市生まれ。
55年に劇団青俳に入団し、68年に劇団現代人劇場を創立。
69年『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビュー。72年演劇集団「櫻社」結成、74年同劇団を解散後、『ロミオとジュリエット』で大劇場へ進出、以後日本 を代表する演出家として国内外の現代劇から近松門左衛門、シェイクスピア、ギリシャ悲劇など幅広い作品を次々と世に送り出している。
また、83年の『王女メディア』ギリシャ・ローマ公演を皮切りに、毎年海外公演を行い、その活動は広く海外でも注目され高い評価を得ている。
彩の国さいたま芸術劇場ではシェイクスピアの全作品を上演する「彩の国シェイクスピア・シリーズ」を敢行中。
88年『近松心中物語』の第38回芸術選奨文部大臣賞をはじめ受賞歴多数。
ロンドングローブ座のアーティスティックディレクターの一人でもある。
2006年彩の国さいたま芸術劇場で55才以上の演劇集団「さいたまゴールド・シアター」創設。2009年若手俳優育成プロジェクト「さいたまネクスト・シアター」開始。

株式会社舞プロモーション hpより

(取材:草川一 / 文:小林憲行)

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