僕の音楽には、パウゼの時間が全部入っている
コンサート中に倒れ、目が覚めたら病院にいて右半身不随の状態。リハビリの間のお気持ちというのは、どのようなものだったのですか?
大学病院に入院した最初の1ヵ月は、右半身が使えない重症の状態でしたから、体も動かないし口も聞けないし、もう本当に体が凍りついたように自分の意思では何にもできない状態でした。次の1ヵ月は回復患者向けの病棟でリハビリをして。
実を言うと、リハビリは楽しかったですよ。入院2ヵ月目に入る頃から体を動かしてまず歩くこと、そして話すこと、記憶を取り戻すこと、記憶を使ってものを思い出して言葉にして色々な表現にすること、体を使って何かをすること、手先を使ってものを移すことを練習しました。冬でしたからスキーもやりましたよ、平地で。要は上手な転び方の練習をね。体を動かしたら、気持ちが動く。大げさなようですけれど、氷が溶けていくようでしたね。
リハビリを始めた頃から本も読めるようになってね、週末になると病院から車を出してくれて、うちまで帰って本を選んで。その頃は井上靖の本をたくさん読みました。リハビリの他はすることがないですから、消灯時間になっても布団に隠れて読んでいました。それまではなかなか読書の時間も取れなかったから、それもプラスでしたね。
リハビリでは、本当に一つ一つ目が開いていくような感じでした。記憶を取り戻すような普段はしないこともやるし、できるようになっていくのがとにかく面白かったからね。僕が熱心だから、先生たちもはりきっちゃって。
リハビリが始まって2週間くらいして病院の院長と主治医と看護師と家内とで僕の今後について会議をしたら、この人は回復が驚くほど早いからもう退院してもよろしいって。最後に患者の僕の意見を聞かれたんですけどね、僕は楽しくてしょうがないからもっといさせてくれと言って、2週間居続けました。それでだんだん良い状態になって2ヵ月で退院して帰ってきたんですけども。
とはいえ、ピアノを再び弾けるようになるまでには、葛藤などもおありだったのでは?
退院しても、その頃はまだみんな、「もう舘野は、音楽に復帰することはない」と思っていた。誰もまた弾けるようになって復帰するなんて考えてもいない状態でした。お見舞いに来る人もそういうニュアンスで、「あなたは文才もあり写真も上手だし、功なり名を遂げた人だからこれから色々なところに回想録を書いたり、ゆっくりと奥さんと旅行をして美味しいものを食べてのんびりすればいい」と言って、誰もピアノの話をしない。言っても「回復したらラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』を弾いたらいい」くらいでね。でも、ラヴェルの一曲だけで演奏家の生活はできるわけない。
家内のマリアも声楽家で、オペラで歌ったりシベリウスアカデミーで教えたりしていたから、「あなたはもうこれからを心配しないでいい。私が教えたり演奏したりしてうちの生活もやっていくから、心配しないで体をゆっくり休めて、ゆっくりゆったり生活してください」と。何しろ何十年と演奏家と暮らしてきたから、彼女にしてみれば複雑だろうけど、本当は嬉しいという気持ちもあったのですね。ずっと僕は不在がちだったから、「これからは私と一緒にいてくれるのね」と(笑)。それで2年ぐらいそんな生活が続いたんですよ。
音楽家の息子さんがプレゼントしてくれた左手のピアノ曲の楽譜がきっかけで、再び弾くようになられました。その時、「新しい人生が始まった」と感じられたとか?
ある意味では……。とにかく今までやったことがない世界ですし、左手だけで演奏している人もいないし、左手の曲も少ないし、そういう意味では、新しい人生、という言い方もできると思う。闘病前は当然、「左手のピアニスト」と呼ばれることもなかったし、一般にそういう名称があったわけでもなかったし。だけれども、ある一面でいうと、自分は全然変わってない。だから「病気をして、復帰をして、左手で弾くようになって、人生観が全部変わったでしょう?」「劇的な変化があったでしょう?」と言われるけど、そんなものは何もない。昔からやっていることをずっと続けている。それだけなんですよ。
闘病を経て、人生の長さについての考えや、人生に対する向き合い方が変わることもなかったのですか?
変わらない。友達の関係も変わらないし、病気になる前と変わりないものが続いて流れているしね。2年間のパウゼ(ポーズ=休止符)はすごく大事な時間だったと思うけどね。
それ以前にも、もっと軽いかもしれないけれど、人生のパウゼというべき良い時間を過ごしたことがあってね。東京藝術大学を受験した1年目は落っこっちゃった。うちの親父なんかはガックリしちゃって、でも僕は全然どうってことなかった。1年間の浪人生活ほど良い時間はなかったですよ。学校へ行くという勤めもなくなって、映画にも野球観戦にも行ったし、ガールフレンドもできたし。音楽に対しても自分の好きなことあるいは新しいこと、求めていることをドンドンできた。浪人時代と闘病、この2つのパウゼというか切り替えの期間を持ったことは素晴らしかったと思うんですよ。
もう一つ、終戦の年に僕は小学校3年生だったけれど、焼夷弾が家に直撃して、翌朝、焼けちゃったピアノがごろっと転がっていた。それを見てもどうとも思わなかったけど、本を手に入れることはとても難しかった時期で、大好きな宮沢賢治の『風の又三郎』と『西遊記』が焼けちゃったことは、惜しい、悔しいと思った。
(両親が音楽家なので)生まれた時から自宅にはアップライトピアノが2台あって、音が鳴っているのが当たり前。音楽をやっているのも全然特別な意識じゃなくて、毎日ピアノを弾いていた。いつから音楽を始めたというのはなかったし、空襲で焼け出されて疎開して終戦まで4ヵ月くらいそこで過ごした時も、音楽を離れたら生きられないという感じは全然なかった。田舎での生活がすごく楽しくてね。この時期もパウゼと言えるのかな。
つまり、自分の音楽の中には、こうしたパウゼの時間も全部入っているわけですよ。周りで接している人から受けるものも必ず残っているし、今まで広い世界を見てきましたけれど、そこで体験したこと経験したことも残っていて、それが全部音楽に出てくるわけですから。
弾いている時は、俺は生きているんだなと思う
左手だけでピアノを弾くようになられたというのは、それは舘野さんにとっては、別の楽器に持ち替えるようなことだったのですか?
今でも音楽をやっているだけなので、その点では全然変わりはないですね。左手の曲も作曲家に頼めばいいんですよ。今までに10ヶ国くらいの作曲家が100曲くらい書いてくれています。日本の作曲家だけじゃなくてポーランド、フィンランド、アイスランド、エストニア、オーストリアのウィーン、アメリカ、アルゼンチンとか。常に新しいものができてくるから、楽しいし、スリルがある。作曲家にとっても、左手の曲を作曲することが新しいチャレンジであり発見であるとわかってくるし、何より僕が実際に演奏するしね。色々な編成で色々な演奏家がいろいろな場所で演奏して、皆が喜んでくれることは、作曲家にも嬉しいですよ。
でも左手で演奏するっていうのは……そうねぇ、僕は左手で弾くためにトレーニングしたわけじゃないし、今までと変わったことはないと最初は思っていたんですけれど、最近は、「これはやっぱり、全然違う世界だ」と。平たくいうと、1曲の中に伴奏とメロディがあり、メロディも1本とは限らなくて、2本が同時に進行していることもあれば、2本がぶつかっていることもある。わかりやすくいうと、一つ一つのメロディがそれぞれの性格、パーソナリティのようなものを持っていて、意識の持ち方も違う。それを、以前は右手と左手でやっていたけれど、今は左手だけでやっている。二本の手に分けず一本の手で弾いているのは大きな違いだし、僕の一つの体でやっていくのが大事だと、だんだん思うようになってきました。
常に新しいことがあるのは、若々しく人生を送る秘訣ですか?色々な世界を何度も体験しているようなものですね。
おかしいよね。うちのマリアが言うんだけどね、
「あなたはステージに出てきた時は、ピアノにたどりつけるかしらと思うくらい危なっかしいのだけど、ピアノを弾きだすととたんに30年は若返るわね」って。
弾いている時は、「俺は生きているんだな」って思う。でも、僕にとって生きているというのは、日が差してきて植物が育って花が開いて、というのと同じですよ。7時間でも8時間でも続けて弾いてもなんともない。疲れない。ピアノを弾くことを、義務として感じることは全然ないです。やっぱり弾きたいものね。あまり難しく考えない。
演奏会の前も気持ちを作ったりしない。でも、どんな空間でも音楽をやる空間は、自分の知った空間ですから、考えるわけではないけれど、ステージの袖から踏み出した時、世界が変わっています。だからいつも新しいんです。それは若い頃から、子供の時からみたいです。
聴衆の反応は気になりますか?
だいたい音楽というのは、楽器があって聞く人がいる。それだけあればどこででも成り立つんですよ。だから、良い楽器じゃなきゃ、素晴らしいホールじゃなきゃというのは僕にはなくて、楽器やホールが良ければもちろん素晴らしいですけどね、色々な楽器で弾けるというのも楽しみですよ。
どんな演奏家でも、どこへいっても、客席はどうなのかという、お客さんの反応はすぐにわかります。反応がすごいところでは、客席のエネルギーが押し寄せてくるような感じ。その味を覚えてしまうと、演奏活動がやめられない(大笑い)。
アルゼンチン・ブラジル・メキシコへの演奏旅行は本当に忘れられなくてね、また行きたいですね。別世界じゃないかというくらい、お客様の熱狂度が違います。1曲が終わるたびにお客さんがみんな立ち上がり拍手。反応が熱くってね。そういうのは北半球ではあんまりないですよね。
熱さは違うけれども、演奏旅行で回った旧ソ連時代のキエフ、モスクワ、サンクトペテルブルクなどは、文化に窮乏している時代だったこともあって、熱烈で食い入るような聞き方で印象に残っています。心に染み入るような、触れるような反応でした。
追悼の演奏では、音の響きが連れて行く世界に託す
ところで、フィンランドでの生活のこともお聞かせください。北欧というと、福祉が充実したイメージですが、実際にはどのように感じますか。
日本では一般的に北欧の福祉が素晴らしくてムーミンの世界でと……と思うんでしょ?
だけどもう55年も住んでいるから、実際のことを見て知ると、そんなに単純じゃない。僕が病気になった時、2ヵ月入院して費用もかからないし、リハビリも色々気を使ってくれたけれども、そういうことに限界があることもわかるわけです。
フィンランドは福祉先進国というのも、戦後、理想に従って福祉を進めてきたから確かにそうだけれど、結局運営していくのは政府じゃなくて人だから。マンネリというか疲れというか、特に大都会では表面化していると思うんですね。で、マリアのお母さんが今97歳だけど、都会の医療ではなかなかじっくりとは診てもらえないです。でも地方ではとても丁寧に診察してくれるなんて話も聞くしね。向こうの病院では、「日本の病院は、細かい心遣いでやってくれるから良いでしょう」なんて言われるくらいですよ。
フィンランドの人たちは、宗教についてはどのようなスタンスなのですか?
フィンランドは、プロテスタントですよね。でも、最近は宗教離れして、あっさりとしているんじゃないでしょうかね。
僕の友達も生まれると教区に入って、その教会の信者として洗礼を受けるわけだけど、友人のフィンランド人作曲家の故・ノルドグレンは、途中で宗教を全部捨てちゃって。うちのマリアも、ある意味はすごく強い宗教心を持っているけれど、自分はロシア正教のような教えの方が好きで、プロテスタントの世界は受け入れられないと言う。それで、マリアは僕と一緒になって四十何年、教会に行ったことはないですよ。
舘野さんご自身は、ご葬儀についてはどんな考えをお持ちなのですか?
お葬式も、結婚式も、そういう儀式にはなるべく行きたくないです。お祝いやお悔やみは言いますけれど。
儀式的なものは苦手だけれども、追悼の会での演奏を頼まれることは時々あることですね。自分が行ける時はお断りせずに行って、演奏もするし、話もしますね。
追悼の演奏でも、僕は弾いている時は何も考えません。故人のことを思って演奏することも特にありませんね。音楽が連れてってくれるのであって、イマジネーションなんてない。音がなって響くから、それについていけば良いんです。音以外のことは考えない。でもそれを人に話そうとすると、川が流れてきて平地で池のようになって、とか、そういう言葉での表現に置き換えなければ音楽は通じないから、そう語る時もありますけれど。
死者に対する礼儀や想いも、音楽に託すことができれば一番良い。とにかくなんていうか、音楽の世界はすごく大きいですから、皆さんが一緒にその世界に生きてというか、経験することでしょうから。
お話を聞いて、舘野さんの体には、血液のように音楽が流れていらっしゃるような感じを受けました。生まれた時から当たり前にある音楽とともに生き、常に世界が新たになる。
闘病すらも、のちの音楽活動の糧としてしまう。人生を充実させる秘訣をお聞きしたように思います。2019年5月20日からの日本フィンランド国交樹立100周年記念公演が大変楽しみです。
ありがとうございました。
舘野泉
ピアニスト。1936年生まれ。領域に捉われず、分野にこだわらず、常に新鮮な視点で演奏芸術の可能性を広げ、不動の地位を築いた。
人間味に溢れ、豊かな叙情をたたえる演奏は、世界中の幅広い層の聴衆から熱い支持を得て、深く愛され続ける。2002年に脳溢血で倒れ右半身不随となるも、しなやかにその運命を受けとめ、「左手のピアニスト」として活動を再開。 “舘野泉の左手”のために捧げられた作品は、10ヵ国の作曲家により、80曲にも及ぶ。フィンランド在住。