お母さん、披露宴も開けなくて、ゴメンナサイ

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今は亡き親戚へ

「娘の晴れ姿を親戚や多くの人に披露したい」母親なら誰もが持つ夢。その夢を私の勝手な理由で潰してしまった。母は子ども四人の中で、私の妻だけが結婚披露宴が開けず、さぞ悔しかっただろう。結婚を機に熊本を離れ、広島、高知、鳴門と遠く離れてしまった。その後は、非力ゆえに何の成果もなく歳月ばかりが流れ情けなかった。

平成二十五年六月十四日、母は、千葉・鳴門と、熊本から遠く離れて住む娘に見守られ、九十歳で旅立った。亡くなる三ヵ月前に熊本の山鹿へ行った。元気で話も十分できた。翌日、妻の実家を守っている弟夫妻に車で「熊本城二の丸公園」まで送ってもらった。「肥後ちょんかけ独楽保存会」の練習会場へ。ちょうどその日は保存会の練習日であった。「わざわざ鳴門から見舞いに来た」とはどうしても言えなかった。翌月行った時も母は元気だった。七月には実母の初盆で熊本へ行く。その時こそ「お詫び」を言わねばと思っていた。その一ヵ月前に母は亡くなり、その機会を失ってしまった。

七人兄弟の中で、私だけが無理やり大学へ進学した。授業料免除、食事つき住込みの家庭教師や諸々のアルバイトで賄った。しかし、高卒で就職しなかったので家には苦労をかけた。

それで結婚式・披露宴はせず入籍だけと決めていた。そのことを知った熊本県立山鹿高校の同僚たちが、それでは奥さんが可哀そうだと会費制の披露宴を開いてくれた。

約半世紀前の昭和四十二年三月神社で質素な式を挙げ、親兄弟だけの顔合わせを社務所で簡単に済ませた。会費制披露宴に両家からは誰も参加しなかった。それで所謂一般的な披露宴は開けなかったのである。

平成二十六年三月十八日、十年前に定年退官した鳴門教育大学卒業式で栄えある「今堀賞」を頂いた。「本学の国際交流の推進に大きく寄与されました」と学長から表彰された。熊本市無形文化財「ちょんかけごま」を、留学生に「日本の教育と文化」等で教え、定年後もボランティアで留学生の希望者には始業前に指導している。アフリカ東部のウガンダに今年三月帰国した数学教師Sam Mubiruさんとは帰国後もメール交換をしている。地道な努力だけしか取り柄がなく、定年十年後の受賞だった。せめて母の生前にその賞があれば、母も「よく頑張った、ご苦労さん」と言ってくれたかもしれない。そんな話も含め、受賞報告を兼ね来月の一周忌に墓前で母にお詫びしたい。

「お母さん、披露宴も開けなくて、ゴメンナサイ」

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」より

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」は、父母、祖父母、先生、友人、近所の人など。“あの人”とかつて一緒にいた時に言えなかったこと、想い出や、“あの人”が亡くなった後に伝えたくなったこと、感謝の気持ちなどを綴ったお手紙です。

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