祖母と暮らした青春期

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今は亡き祖母へ

僕は大学入学と同時に家族ごと東京に引っ越してしまった。だから故郷の大阪に家はない。

だけど大阪に友達はいた。

だから長期休みになる度に大阪に帰っていた。

だけど家がない。

だから僕はその度にまだ大阪に住んでいた祖母の家に泊めさしてもらうようになった。

それは十年ぶりのことだった。祖母は一人暮らしだった。

祖父は僕が九歳の時に亡くなっている。

僕は小さい頃、よく祖母の家に遊びに行っていた。

だけど、成長するにつれ、足を運ぶ回数は減っていった。

高校三年間で行った回数は十回もないと思う。

そんな感じだったから初めて泊めさしてもらった時は、なんだか照れた。

祖母の笑顔は少しも変わってなかったが、僕は少し大人になっていたため、その笑顔を素直には受けとめられなかった。いつも夜な夜な遊んでた。

家では母に何も言われないが、祖母には「心配してんねんからはよ帰ってきいや」と毎回も言われた。

最初は面倒臭いなぁと思っていたが、心配してくれてんねんなぁと考えるようになってからは悪いことしたなぁと思うようになり、祖母の家にいる間は早く帰ってくるのを心掛けた。

そうすると祖母といる時間も増えた。

祖母は僕の聴く音楽に興味を示したり、僕は祖母の農業や買い物などを手伝ったりすることでお互いの距離は縮まっていき、いつの間にか祖母に対する照れや意地はなくなり、僕は小さい頃より祖母と仲良くなっていた。

大学四年の最後の春休み、就職するからなかなか会えなくなるのが自分でもわかっていたからかもしれない。

東京に帰る時、僕は祖母に自然と言葉が出た。

「おばあちゃんとおって楽しかったわ」

祖母はいつも通り笑っていた。

でも荷物を持って玄関を出ようとした時、振り返ったら祖母は涙を浮かべていた。

僕はたまらなくこの人が好きだと思った。

僕もその場で涙を流したかったけれど、それは恥ずかしいので足早に去り、駅のホームで号泣した。祖母の葬式でも僕は誰よりも泣いた。

それは青春期の大きな部分を僕は少し変わった形で祖母と暮らしたからなのかもしれない。

それとももう少し一緒にいたかったからなのかもしれない、それは無理なことなのだけれど。

おばあちゃん、僕は相変わらずふらふらしてる。

恋人もいない。

だけど頑張るよ、おばあちゃんが僕に笑顔をくれたように、僕も誰かに笑顔をあげられるような人になれるよう。

見ててくれな。

僕のおばあちゃんでいてくれてありがとう。

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」より

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」は、父母、祖父母、先生、友人、近所の人など。“あの人”とかつて一緒にいた時に言えなかったこと、想い出や、“あの人”が亡くなった後に伝えたくなったこと、感謝の気持ちなどを綴ったお手紙です。

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