亡き母へのお礼

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今は亡き母へ

母は太平洋戦争の最中、父を病気で亡くした。六年生を頭に五人の子を抱え、家計が苦しいのですぐ働き出しました。

戦争の激しさは食料の配給にも影響して三度の食事を欠くようになりました。末の弟は栄養不足になり、体は痩せ衰え、牛乳、卵、魚を食べさせても回復せず、心臓病も併発しました。母は親戚を廻り金を工面し、やっと病院に入れた途端、担当医から「手遅れです」と引導を渡されました。数日入院しただけで帰らぬ人となりました。

母は家に帰った弟の亡骸にすがり付き「貧乏でごめんね」と謝る。こんな時でも喉元の引っ掻き傷を見付けると、姉に薬箱を用意させ、傷薬を取り出して「痛かったでしょう、くるしかったでしょう」と声を掛けながら、薬を擦り込む。母の愛がいかに深く、広く無限であることを心に刻むことができました。涙が流れて止まりませんでした。

こんな苦しい時代でも、母は麦、じゃがいも、とうもろこし、青菜でお粥をつくり、味噌汁をすすり、たくあんをほうばりながら、澱粉工場や道路工事でスコップを振りました。収入を補うため、鶏や子豚を飼い大きくして、販売もしました。

四人の子はじゃがいも、かぼちゃづくりと子豚の飼育を通し生産の喜びや、飼育の楽しみを体験しました。職業の視野を広げるため、高校、大学へ進み就職の道を探らせた結果、好きな職業に付けました。

この情報が福祉協議会に届き、娘が成人を迎えた年、母は「子育て栄誉賞」を受けました。その時頂いた表彰額は半世紀を過ぎた今日も、リビングで燦々と光り輝き私達を温かく見守り、優しく微笑みを掛けてくれます。

混乱社会を乗り切るため、母は四人の子に隣から二反歩の農地を借り、農作業の手ほどきをしました。春から秋までの作業には疲れました。母は作業は作物つくりより、家族の元気、根気を高め絆を強めることに幸福がある、と説き聞かせました。

母の歩んだ道と実績を家族に永劫に伝えていきます。母さん有難う。

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」より

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」は、父母、祖父母、先生、友人、近所の人など。“あの人”とかつて一緒にいた時に言えなかったこと、想い出や、“あの人”が亡くなった後に伝えたくなったこと、感謝の気持ちなどを綴ったお手紙です。

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