法然(ほうねん)上人とは?浄土宗の開祖の生涯と専修念仏

小林憲行【記事監修】
小林憲行

記事監修小林憲行

スマホCTA(電話をかける)
記事を先読み
  • 法然は、平安時代末期から鎌倉時代の僧侶で浄土宗の開祖
  • 法然は、南無阿弥陀仏と一心に念仏する「専修念仏」の教えを広めた
  • 日本の浄土宗の信者数は約602万人と、今も沢山の人に息づいている

法然(1133-1212)は平安時代末期から鎌倉時代の僧侶です。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば救われるという「専修念仏」の教えを説き、日本の仏教の宗派のひとつ、浄土宗を開きました。しかし、その人生は父を殺害された幼少期から、理想の教えに辿り着けず苦悩した青年期、既存の仏教勢力からの反発を受けた晩年と、苦難の連続でした。この記事ではその教えや、影響力、苦悩と波乱に満ちた生涯について紹介しています。

Adsense(SYASOH_PJ-195)

浄土宗の開祖「法然(ほうねん)上人」

法然は、現代の日本でも多くの信者がいる浄土宗の開祖です。念仏を唱えることで救われるという「専修念仏」の教えを説き、民衆に広く支持されました。学識も高く、庶民だけでなく貴族や武士、天皇までもが法然に心酔しています。
しかしその人生は生易しいものではなく、苦難の連続でした。幼い頃に父を殺害されますが、当時の世の中では異例とも言える仇討ちを戒める遺言を受け取りました。この遺言と、父が死の間際に唱えた念仏が法然の人生を決定づけたと言われています。そして、人々を救いたいという志を抱き仏門に入り、苦難の日々の中、今日まで残る浄土宗の教えを見出していきます。

法然の教えで民衆に広まった仏教

法然の生きた時代は保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)という戦が立て続けに起き、大地震や飢饉にも襲われ、民衆は絶望の底にいました。また、釈迦の入滅後、時代とともに仏の教えが衰え、乱世になるという「末法思想」も、当時の人々の間で広がっていました。

そんな「末法の世」の中で、ただ念仏を唱えるだけで救われるという教えは、出家して修行したり、寺社に寄進したりすることのできない庶民に広く支持されました。当時の日本で、限られた一部の人のためであった仏教が、民衆へと広まるきっかけとなったのです。
浄土真宗の開祖となる親鸞も、法然の薫陶を受けています。鎌倉時代に隆盛したその他の仏教も、出家せずとも救われるという教えは共通していて、法然が鎌倉仏教の先駆けとなったと言えるでしょう。そんな法然に対しては既存の仏教勢力からの反発も強く、晩年には流罪も経験しています。

法然上人の生涯と専修念仏の教え

父を殺害された幼少期

法然は平安時代末期の長承二年(1133)に美作国(現在の岡山県)で生まれました。幼名を勢至丸と言います。

父の漆間時国(うるま ときくに)は地方の治安維持を担当する押領使と呼ばれる役職に就いていましたが、源定明という人物の夜襲を受け、命を落とします。勢至丸が9歳の頃でした。父を失った勢至丸は、近くの寺の住職だった叔父に学問と仏教の手ほどきを受けます。勢至丸の資質を見抜いた叔父の紹介で京都の比叡山に登ると、みるみるうちに頭角を現しました。しかし、当時の比叡山は権力争いが常態化し、苦しむ人たちを救いたいという勢至丸の思いへの答えはありませんでした。

法然の法名を授かる

18歳で、聖僧と名高い黒谷の叡空の弟子になります。ここで叡空から「法然房源空」の法名を与えられます。叡空の指導の下、厳しい求道の日々が始まりました。24歳で比叡山を去ると、名高い学者や僧と交わり「智慧第一の法然房」などと讃えられ、法然の名声は高まっていきます。

しかし、自身を納得させる教えには出会えず苦悩の日々を送ります。一切経という七千余巻もある経典を何度も読破しましたが、それでも答えは見つかりません。

「専修念仏」の教えを広める

43歳のときに転機が訪れます。唐の善導大師の、観経の疏の書を読んだときでした。阿弥陀仏を称えれば誰もが必ず救われるという教えが、それまでの一切の苦悩から法然を解き放ったのです。山を下りた法然は、南無阿弥陀仏と一心に念仏する「専修念仏」の教えを、人々に広めていきます。この教えは万人の救いとして瞬く間に民衆に受け入れられていきました。やがて貴族や武士にも広まり、上皇、天皇までもが法然から授戒を受けます。

浄土宗の根本宗典『選択本願念仏集』

こうした動きは、既存の仏教勢力の目にも止まりました。比叡山天台宗の座主、顕真僧正が仏教学者を集め、大原の勝林院で法然に質問します。問答は一日一夜におよびましたが、法然はすべての問いに淀みなく答え、集まった者たちを心服させたと言われています。この出来事は「大原問答」と言われ、歴史に名を残すことになります。

65歳になり、身体の不調を訴えることが多くなった法然に、前の関白の九条兼実が教えを本に表して欲しいと願い出ます。この願いを聞き入れ記されたのが、浄土宗の根本宗典とされる『選択本願念仏集』です。これは当初、秘本とされていましたが、ほどなくして弟子入りする若き日の親鸞に託されることとなります。

既存の仏教勢力からの抵抗をうけた法然

七箇条の起請文

法然の精力的な布教活動によって専修念仏の教えは日本中に広まっていきました。一方で、教えが広まるにつれて、曲解する者や、行き過ぎる者も現れはじめます。新興勢力の台頭を苦々しい思いで見ていたのが、奈良や比叡山の古くからの僧侶たちです。

法然が72歳のときに比叡山の僧兵たちが、天台座主の真正に専修念仏の停止を訴えます。これに対し法然は行き過ぎた行為への反省や、他宗派との対立を戒める内容の「七箇条の起請文」を提出します。

承元の法難

朝廷のとりなしもあり、一旦は落着を見ますが、奈良の興福寺も専修念仏の停止を訴えました。同時期に上皇の女官が出家したことが、上皇の怒りを買い、2名の弟子が処刑、咎は法然にまでおよび、土佐へと流刑になりました。これを「承元の法難」と言います。法然、75歳の出来事です。

79歳で許され、京に戻りますが、間もなく病の床に着き、80歳でその生涯を閉じます。念仏の肝要を説いた「一枚起請文」が、遺言としてしたためられています。

令和の今もたくさんの人に息づく浄土宗

法然はその後、1212年にその生涯を閉じました。法然が亡くなった場所は、浄土宗の総本山知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)として親しまれています。また、江戸時代には浄土宗は徳川家康の庇護を受け、東京・芝の増上寺は徳川家の菩提寺として大きく発展しました。

法然の教えは、入寂後800年以上の歳月が流れた今日でも、浄土宗の信者数は約602万人(文化庁「宗教統計調査 / 令和元年度」包括宗教団体別被包括宗教団体・教師・信者数)と、法然の教えは今なお、広く人々の中に息づいています。

法然の「専修念仏」が今日の仏教へ

法事などの場で、唱えることも多い南無阿弥陀仏。そこにはさまざまな教えが込められています。法然が明快で誰にでも実践できる「専修念仏」の教えを広めたことが、今日の日常にある仏教にも繋がっています。法然を知ることで仏教への理解はより深まるのではないでしょうか。
また、故人を偲ぶには、仏教をはじめ宗旨・宗派の教えを深く理解すると共に、しっかりとした準備も大切です。葬儀の準備や方法でお悩みでしたら、まずはお気軽にお問い合わせください。

葬儀・お葬式を地域から探す