天国のお母さんへ

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今は亡き“母”へ

天国のお母さんへ

お母さん。
お元気ですか。

お母さんへ手紙を書くのは初めてかも知れません。照れくさいし、恥ずかしいけど読んでくれていると嬉しいです。

お母さん。

物心ついたころにはお母さんは闘病し、身体中大きな縫い目のある体。母子家庭で私たち三人を育ててくれて、たくさんの習い事、おしゃれな服、髪の毛だって恥ずかしくないようにと頻繁に切りに連れて行ってくれて。

でも、当時の私はわがままばかりで。言いたい放題。他の家庭、友達はこうしてると比べては、自分との違いを訴えてお母さんを困らせ、傷つけていましたね。今になって本当に心無い言葉や態度で傷つけていたと反省しています。

私が中学にあがる頃には、入退院を繰り返すようになっていたお母さん。その度にカテーテルや酸素ボンベ、車椅子と痩せていくお母さんと持って帰ってくる医療器具。お姉ちゃんがお母さんの傷口を風呂上りに消毒するのが役割で、医療用の大きなピンセットでガーゼをとりかえてあげる。

そんなとき、私は生々しく大きな傷跡を見るのが怖くていつも見て見ぬ振りしていました。

覚えてるかな。ある日いつものようにお姉ちゃんが消毒してあげてるときに横目で見て表情をくもらせた私にそんな顔しないで。とお母さん言ったよね。寂しそうな、悲しそうな表情で。

本当にごめんなさい。

最初で最後の家族旅行。温泉旅行。本当に楽しかった。あの時初めてお母さんが大浴場の温泉に入ったのを見た。お母さんなりに何か考えがあっての行動だったのかな。一緒に温泉入れて嬉しかったよ。今でも最高の思い出です。

引越しして、自宅療養になったお母さん。手続きだったり準備だったり、いつの間にか終わってた。本当に大変だったよね。ありがとう。

寝たきりになり酸素ボンベが外せなくなったころ。薬の副作用、息苦しさ、苦しむお母さんを見るのが本当に辛かった。このままお母さんは私たちのことがわからなくなるのかなって。正直お母さんにこれ以上苦しんで欲しくなかった。

お母さん病院行こうか?

私が聞いたら静かに頷いたよね。救急車をよんで、病院まで行く車内。もう二度とお母さんと暮らすことは出来ない。一気に現実味を帯びる死と向き合う怖さこれから先の不安色々な事を頭いっぱい考えて号泣してしまったけど、隣にいるお母さんの気持ち全然考えてなかった。

本当にごめんなさい。

九月の半ば、お母さんがあなただけ誕生日おめでとうって言えないかもしれないからおめでとう。って泣きながら言ってくれた。全然実感も無く、喜べなかった私は、やめて!!と怒ったよね。

でもそれからどんどん悪化して言葉が発せなくなり私とお母さんの最後の会話になりました。

私の誕生日の二週間前。最後の会話をして約一週間後。私たちの前で静かに天国に旅立ったよね。

指先からどんどんぬくもりが無くなり最後胸の温もりが消えるまでお母さんの生きてる証をみんなで辿り、その間もその後も涙が枯れ果てて過呼吸で自分の身体がコントロール出来なくなるまでみんなで泣きました。

お母さんが旅立った後私たち姉弟も同じ病院のベッドで処置されたんだよ。

お母さんが旅立ってからも沢山試練がありました。

本当に辛かった。

なんで私だけ。って何回思ったかわかりません。

親のいない子供の生きる試練。社会人としての試練。友人の結婚。妊娠、出産。里帰り出産って何。車の免許、購入。仕送り。保険、税金って何。何もわからないし、誰も何も教えてくれない。

好きな人ができても家庭環境や生い立ちで別れを告げられ。いつまで辛いのかな。お母さんの所に行きたい。壁にぶつかるとそのことを考え現実逃避していました。

でも、お母さんは十四年という年月の中に他の人が母と子の間で築き上げること、経験することを大事な所をギュッと凝縮して経験させてくれたと、三十路を前にしてようやく少しずつ自分に言い聞かせることで落ち着くことができるようになってきたと思います。

鮮明に残る思い出ですが、感謝、後悔は一生消えない絆です。

どうかこんな私をこれからもずっと見守ってください。私がそっちに行ったらまたお母さんと呼ばせてね。ギュッと抱きしめてくれたら嬉しいな。この世に産み落としてくれてありがとう。お母さんのもとに生まれて本当に良かった。

沢山の思い出をありがとう。

大好きなお母さんへ

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」より

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」は、父母、祖父母、先生、友人、近所の人など。“あの人”とかつて一緒にいた時に言えなかったこと、想い出や、“あの人”が亡くなった後に伝えたくなったこと、感謝の気持ちなどを綴ったお手紙です。

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