病気を恨まず、ひたすら生きようと闘ったおじさん。私はあの格闘を忘れない

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今は亡き“あの人”へ

人生の「上り坂」をどう登るかという格闘だけが価値をもつわけではない。人生の「下り坂」において、ほとんど不可避的に直面するさまざまな困難から目をそむけずに家族が支え合って生き抜くことは、少なくともそれと同等の価値をもつといえるのではないだろうか。

こうおじさんと呼んでいた入院患者さんが、いつも持っていたメモ用紙に書いてあった言葉だ。確か、正村公宏さんの「ダウン症の子をもって」の中にある文を、こうおじさんが書き写したものだったように思う。私が出会った頃、そのメモ用紙はもう黄色く汚れていたのだけれど、こうおじさんはいつも大事に持っていた。

私は大学生の頃、夜間精神病院で働いていた。

きっかけは高校の時の親友が、精神病にかかり、入退院を繰り返した事からだ。頭もよく、美人で、家族思いの優しい人だった。その彼女が大学受験失敗をきっかけに、精神病を発症した。医療のことが何もわからない私は、日々人間性が失われていくように見えるこの病気の正体がわからず、夜間の精神病院でのバイトを決めたのだ。

妄想、幻覚で苦しむ人が多いから、ショッキングな場面もあると聞いていた病棟だが、働き始めると、親切で純粋な患者さんが多かった。一方で、病気の背景には、私の想像を絶する苦難があった。

正常と異常の狭間の中で、「正常」や「健康だった頃の昔」を取り戻そうと、必死で生きている日々に、わずかながら付き添った仕事。朝、状態を確認しに行くと、ドアノブがやけに重いことがあり、何度か自殺に遭遇した。

こうおじさんもそうだった。大学時代に射撃の名選手だった話をよくして、私を可愛がってくれた人だ。

病気を恨まず、ひたすら毎日生きようと闘った人たちのそばに居られたことが、今の私を育ててくれた。人生の下り坂ですら、見事に格闘していた人だ。私はあの格闘を忘れない。人生はきれいごとではない。苦しみとの格闘こそ、生きている証だと思う。こうおじさんの手からポトッと落ちたあの汚れたメモ。

私はあのメモ用紙に恥じない人生を生きたい。いつか、この世を旅立った時、私の格闘ぶりはどうだったかと、こうおじさんに聞きたいのだ。もし、おじさんが褒めてくれれば、私の人生は合格ということなんじゃないかと思う。

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」より

「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」は、父母、祖父母、先生、友人、近所の人など。“あの人”とかつて一緒にいた時に言えなかったこと、想い出や、“あの人”が亡くなった後に伝えたくなったこと、感謝の気持ちなどを綴ったお手紙です。

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