永六輔さんお別れの会(1) 孟宗竹の祭壇に遺影は3枚「六輔 永(なが)のお別れ会」

タレント、作詞家、作家など、さまざまな分野で活躍した永六輔さんのお別れ会、「六輔 永(なが)のお別れ会」が2016年8月30日、東京・港区の青山葬儀所で開かれました。

7月7日に肺炎のため自宅で息を引き取った永六輔さん。雨の降る中、関係者やファンら大勢の人がお別れに訪れましたが、会の終わるころには、空はすっかりと晴れ渡っていました。

 

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「粋」な「和」の雰囲気!孟宗竹の祭壇

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祭壇は、「粋」な「和」の雰囲気ですっきりとした雰囲気。

京都から取り寄せた30本の孟宗竹を大胆にあしらって、和花を中心に取り入れ、「粋」なイメージを表現。竹のみずみずしい緑に、遺影は低めの位置に飾っています。

また、永六輔さんの優しい人柄を表せるように、特に柔らかな花や緑を選んだそうです。

ポイントとして、青紫のクレマチス、アジサイ、ダリア、リンドウなど、季節の花が飾られています。

祭壇に向かって左側にはラジオのリスナーからのお便りを大切にしていたという永さんにちなんでポストが、また右側には太鼓も飾られています。

お別れ会の中で、和太鼓奏者の林英哲(はやし えいてつ)さんが、太鼓の演奏を奉納しました。

ちなみに、祭壇を飾ったり、お別れ会を準備・運営しているのは、日比谷花壇です。

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>>日比谷花壇のお葬式

>>株式会社日比谷花壇 社長インタビュー

 

20代から70代まで、遺影は3枚

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遺影は、和服姿の20代、ラジオマイク前の50代、70代後半の写真と、全部で3枚選ばれて飾られています。

黒柳徹子さんはお別れの言葉の中、これら3枚の遺影を見比べて、「やっぱり50代のころの永さんは本当に見場がいいなってこういう風に思って見てます」とおっしゃっています。

 

永六輔さんの生涯をパネルで展示

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また、会場向かって左側の壁には、永さんの83年の人生をパネルで振り返る展示コーナーも用意されていました。

あまりにもたくさんの写真があって、選ぶのが大変だったそうです。

 

法名は「釋 孝雄 六輔」

永六輔さんの生家は浅草にある浄土真宗のお寺、最尊寺です。

浄土真宗なので、戒名ではなく、法名をつけます。

法名のつけ方は、本来であれば、「釋」の後に故人の名前を入れる習わしですが、永六輔さんの場合、「『六輔』としての人生も大変大きい部分を占めていた」ため、あえて「六輔」という名前も入れて「釋 孝雄 六輔」となりました。

 

丸いポストのお便リコーナー

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今回のお別れ会では、記帳の代わりに「お便りコーナー」が設けられていました。

お別れ会に参会した方々の温かい気持ちが、永さんに届くようにという願いが込められています。

受付で配られた、郵便はがき風のメッセージカードにメッセージを記して、受付前に設置されたポストに投函します。

投函したメッセージは後日、ラジオで紹介される?かもしれません。

 

「泣かないでください。皆で笑って帰りましょう」

開会に先立って、永六輔さんの次女、永麻里さんがマイクの前に立ち、「今日は楽しく過ごしていただきたいと思っております。泣かないでください。皆で笑って帰りましょう。それだけお願いいたします」と挨拶しました。

司会のきたやまおさむさんは開会の辞で、永六輔さんを「面白くないことを面白くする天才でした」と言い、「この本日の会を、ひょっとしたら彼がプロデュースした中で一番面白くない会になるんじゃないかと心配しております」と笑いを誘いました。

また式中は永六輔さんと生前、親しかった方々が永さんとの楽しいエピソードなども織り交ぜ、お別れの言葉を述べました。

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お別れの言葉。黒柳徹子さん、鎌田實さん

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発起人代表 黒柳徹子さんのお別れの言葉

永さん。

永さんは、私の死んだ時の葬儀委員長をやるとおっしゃってらしたのに、思惑外れて申し訳ありませんでした。

60年間永さんとお友だちでしたけれど、一度も喧嘩したことはありませんでした。本当に仲のいいお友だちと言っていいと思います。

亡くなる4日ほど前と3日ほど前に、永さんのところにお見舞いに行きました。

その前は行かない方がいいかなと思ったんですけど、でもやっぱり一応、行ったんです。

そしたら永さんはずっと寝てましたけれど、私が「永さん」と言うと、大きい声で言うとパっと目を覚まして、私の方をパっと見て、私を見ると「あははははは」って笑ってまた寝ちゃいました。

だからまたしばらくして、「永さん」というとまた起きて、私を見て「あははは」って嬉しそうに笑ってまた寝ました。

で、3回か4回そうやったんですけれども、そのたびに永さんが起きて大きい声で笑うと疲れるといけないと思って、その日は止めて。

また次の日行って、また「永さん」って言ったら、私を見て笑って「あはははは」って言って、本当に永さんのいつものあのラジオと同じように、大きい声で笑って、それでまた寝ました。

それでそういうのを4、5回して、それでお別れしました。

その次の次の日に亡くなったというお話を聞きました。

今日はなるべく楽しいお話がいいというので、ずいぶん永さんのお話はしてしまったんですけど、ほうぼう。

ちょっとしてなかったことを思い出して、永さんが顎が外れた話は、ご存知の方も多いと思いますけども、若い方はご存知ないかもしれないのでちょっとお話しますと、永さん顎が外れました。

それで夜中に原稿を書いていてあくびが出たので、そのあくびを止めようとガンと頬っぺたひっぱたいたらガクッと外れて。

それでどうしたらいいのかわからないので、まず電話帳で整形外科っていうのを調べたら原宿にあるっていうのがわかったものですから、タクシーに乗って。

とにかくそこに行こうと思って乗ったら、顎が外れると物が言えないってことに気がつかないで、運転手さんに「あががががはががはががアダだだ」と言ったら、運転手さんがお化けだと思って「降りてください」って言ったんです。

で、また家に戻って今度は紙に「顎が外れた。驚かないで」と書いて奥様の昌子さん見せたらば、昌子さんはお利口な方ですからすぐわかって、「一緒に行きましょう」って言って、それでその間も永さんも説明しようとすんだけども「あだ、あだだだだ、あわわああ」って全然物が言えないということが分かったそうです。

それで夜中に起きてもらって、整形外科の先生に。

顎を見ていただいたら、ものすごく顎を入れるのは乱暴な仕事だそうで、最終的には「寝てください」って言われて、寝たら足でどっかをおさえてガン!ってこういう風にやったら、ガクって入ったら、「ああ、永さんだったんですか?」ってその先生が言ったって。

それが落ちになっているんですけれど。

まあ、そんな話はずいぶん何回もした。そのうち外れやすくなっちゃって、気を付けないとしょっちゅう、すぐ外れるので「なるべく外れないようにする」っておっしゃっていました。

若いころは本当に、『夢であいましょう』の皆でも、私たち渥美清さんでもエリックさんでも誰でも皆、仲良かったんですけれども。

NHKに出ていたもんで、有名になるのは早かったんですけれど、お金がなくて、皆、貧乏でした。

それで、でもやっぱり中華料理くらいは1回くらいは食べたいということで、皆で中華料理を食べに行ったんですけれども。

渥美さんが「エビチリ食べたい、どうしてもエビチリ食べたい」って言うので、エビチリは頼んだんですけれど、どうしてみても皆の数からするとエビチリの数が少ないと私は思ったもんですから、ぱっと計算して「1人3個」って、こういう風に言ったんですね。

「3個、3個以上食べたら絶対だめだから」って言ったら、渥美さんが「いつか俺が働いて、数えなくてもいいように食わせてやるよ」って言ったんで、考えてみると、後の本当に、あの寅さんのようでした。

その時に永さんが「いや、そんなことないよ」って。

「今が一番幸せなんだよ。年とっておなかがいっぱいっていうか、物が食べられなくなって、そんなもの数えたりしないで、いっぱい余っていても食べられなくなる方が不幸せじゃないか。今のように皆で『3個』とか言っている今が一番幸せなんだよ」って、もう二十何歳ですかね皆、その時。

永さんて、後で思えば大往生のようなことをもうその時からおっしゃっていたんだなっていう風に思います。

でも、本当に永さんは私に優しくて、何かにつけて「ここに渥美清がいればね」ってよく言って、最後に『徹子の部屋』に出たときも、「ここに渥美清がいればね」ってどういうわけだか知らないけど、そういう風に言って、いつも一緒にいたら楽しいのにねっていう風な感じでした。

最後に出てくださったときに、大橋巨泉さんと一緒に出てくださって、そのお二方が本当に日を追うように亡くなってしまったことは本当に、辛いことでいた。

でも、永さんとは大概笑っているときしかなくて、永さんと、でも、そんなに60年も長いおつき合いなのに、本当のこと言うと60年以上でして。

私がディズニーの声の吹き替えをやる役をオーディションを受けたら、私、落ちたんです。

そうしましたら、(カメラマンに)よろしいんですけど、写していただいて構わないんですけど。写すんなら今のうちに写してください。

ディスニーの、永さんが「ダンボ」だって言うんですけど私は違う、バンビだと思うんですけど。とにかくそれのオーディションに行きましたらば、もうちょっとのところで私が落ちたんです。

そうしたらばミスターカッティングっていう今でも忘れません、62年ぐらい前の出来事ですけど。私にとても悪いので、これを私に「お詫びのしるしに渡してくれ」と言って、赤いハンドバックを永さんに渡して、永さんがそれを持って。

永さんは三木鶏郎さんところで、そういうことをやっていたらしいんですけど、ヤンボーニンボーやっている私のところに永さんが会いに来て、赤いハンドバック持ってきてくれました。

私は単なるお使いの人だと思ってもらったんですけれど、後でそれが永六輔さんだってことがわかって、永さんが「覚えてる?あの赤いハンドバック渡したの僕だよ」ってずいぶん経ってからそれを聞きました。

ですから私たちは60年以上のお友だちでいましたけれど、61年くらいのお友だちです。私、芸能界に入って今62年になりますので。

それなのに私は永さんとご飯を食べたことがなくて。

1回だけおごってもらたことがあるだけで、本当にご飯をたべたことがないなって。

永さんはたぶんああいう方ですので一緒にご飯を食べたりするのをなんか嫌がっているみたいなところがあって、やっぱりきちっとしたところだけで会いたいのかな?って感じがあったんですけれど。

1回だけ私が鹿児島で芝居をしてました時に、永さんが会いに来てくれて、私が昼前の公演が終わったら、「飯食う?」って言ったから。

珍しいなって思って、「行く行く」って言ったら、「ネギ飯好き?」って言ったから、「うん」って言って、なんか想像して、細いおネギがいっぱい乗っかってる、なんかおいしいもんだろうなって思ってずっとついていきましたら、なんかヨシの張ってあるようなラーメン屋さんみたいなところに行きまして、しかもそのラーメン屋さんが昼間から閉まってるのに、ドンドンドンってやって永さんが開けてもらって。

「黒柳君にネギ飯食わしてやってよ」って言ったら、「はいはい」ってそこのおばさんが来て、見てたらば、ラーメンの上に乗せるおネギありますよね?あれ、こういう風に。よく切れてなくて終りの方がくっついたりなんかしたり。あれをご飯の上に乗せまして、ラーメンのおつゆありますよね?ラーメンのスープ。あれをご飯にかけたやつ。それが永さんが言うところのネギご飯でした。

で私、まずくはないですけど、芝居が終わってせっかく鹿児島で会ったんだから、もうちょっとおいしいもの食べたいなって思って、永さんに、「ねえ、もうちょっとおいしいのないの?なんか」って言ったらば、「こんなうまいもんないじゃないか!」って叱られそうになったんで、「じゃあ、これでいいです」って言ってそれだけ食べたことを覚えています。

それ以外に、永さんにご飯をおごってもらったことも、私がおごったこともないように思います。
 60年も一緒にいて、ご飯を食べたことがないというのはずいぶん、珍しいと思います。

私は「永さんに叱られたことがない」とさっき申しましたけれど、1回だけ永さんが怒ったのを見たことがあります。

それは八大さんが亡くなったとき。

私と永さんと、八大さんのお家にとにかくすぐ行ったんですね。

それで八大さんの奥様やなんかと話して、表に出てきたらもうマスコミの人がそこに待って、私より10メートルくらい先を永さんが歩いて、同じ車に乗るつもりだったんですけれども。

マスコミの人がなんか言ったら、ものすごい声で永さんが怒って「バカヤロー!」と言って、「当り前じゃないか!」ってなんかすごく怒ったので、私、何事が起ったのかと思って走って行って「どしたの?」って言ったら、永さんに「お悲しいですか?」って聞いたんだって。

そしたら永さんが、「八大さんが死んだことを悲しいですか?」って聞いたマスコミの人に、「バカヤロー!当り前じゃないか!」って言って自動車に乗って、私も永さんもずっと車の中で、泣きながら帰ったっていうのを覚えています。

それは八大さんが亡くなったときのことなんですが。それから、ずいぶん八大さんのことも、永さんは、日本人学校をやっていた後の始末をするために、ずいぶん外国にもいっぱい行ってらっしゃいました。

今私、見てたんですよ。

この写真、20代、50代、後の方ってことですけど、真ん中のお写真はやっぱり50代のころの永さんは本当に見場がいいなってこういう風に思って見てます。

そう思わなかったんですけれども、こうやって見るといいなって思って。

永さんが、昌子さんが亡くなった後、講演に行って、「『僕は黒柳君と結婚しません』っていうと皆がワーって笑うんだ」って言ったから、「そうお?」って言ってたら、しばらくしたら「あれでうけなくなってきて、この頃『黒柳君と結婚します』って言ったらワーってうけるんだよ」って、そんなこと言ってたんで。

でも、「あなたとは結婚しないと思う」って私が言ったら、お嬢さんが「だめだと思いますよ」って言って。「二人で朝から晩までしゃべって、どっちも言うこと聞いてないと思います」って言われたんで、それもそうかなって思ったんですけれど。

永六輔さんのような難しい人と、あんなに長く結婚してらした昌子さんは、私たちも仲良しでしたけれど、本当にいい奥さんだったんだと思います。

ま、もう、たぶん昌子さんにはお会いになったんだと思いますけど。一番、永さんが待ってたこと、14年半も独りで暮らすなんて考えられなかったですけど。

永さんがそうやって独りで暮らしているのが、私は大丈夫かなと思って心配はしていましたけど、なんか持てって作ってあげるということもなく、何事もなく。「どうだったんですか?」って、よくお聞きになる方あるんでしょ?「結婚しようと思ってなかったんですか?」なんて。そういうことは全然なかったですね。

でも本当に、いいお友だち以上の、なんていうんでしょうね?こういう、名前のつけ方ってのは?なんて言ったらいいのかわからないんですけど。よく同志とか戦友とかそういうんではなくて、やっぱり、心からの……。わかりあってはいなかったですよ、決して。なんで永さんとあんなに長く話してるのに、永さんとお互いなんか、よくわかってないんじゃないかな?って思う時があったんですけど。

それでもまあ、仲良くしていて、『徹子の部屋』も最多出場者でいらっしゃいまして、39回くらい出ていただいて、いろんな話、そのたびにしてくださって。そこで私に面白い話を探して来ようと、一生懸命、永さんがほうぼう駆けずり回って新しい話をいつも仕入れてくださいました。

もうこんなに長い話をしてると、5、6分という話でしたんでね。もうこれで止めることにいたしますけど。

永さん、これからの生涯ですね、私もあと10年は『徹子の部屋』やろうと、今40年なんで、あと50年まではやろうと思っていますけど、はっきり言って、永さんがいらっしゃらないこの世の中は、非常につまらないという風に思っています。

あなたが本当に守ろうとした子どもたちが、これから幸せに生きていってくれればいいとそういう風に思っています。

本当に永さんの亡くなったのは何かにも書きましたけど、いろんな方がここのところ亡くなりましたけれど、やっぱり最後の一撃っていう風に感じています。

でも、永さん。どうぞ私たちを見守ってください。あなたが教えてくださったこと、勉強ではないですけど、面白いこと。そして『夢であいましょう』やなんかでいっぱいあなたがお書きになった歌。そういうもの、私、忘れないようにして生きていきます。

なんかあの、こんな風にあなたが私の葬儀委員長をやるってことになってたんだから、こんなことになるはずはなかったんですから。私がこんなところに立ってんじゃなくて、永さんがここに立つ予定だったんですから。本当に、私、悲しいって思ってますよ。

そんなわけで、永さん、60年間以上、いいお友だちでいてくださって本当に、ありがとうござました。心から、お礼申し上げますし、永さんの優しさにも、心から感謝しています。

本当に、どうも、ご冥福をお祈りしてます。

どうも、さよならと言うのも変なんで。またどうせ、近いうちにお会いすると思いますので。その時にまた。

じゃあね。

 

鎌田實さんのお別れの言葉

永さん。

いろいろ教えていただきました。

本当にありがとうございます。

あなたはとても病院が嫌いでした。

宿泊付きの入院ドックに行ったのに、採血は嫌、カメラは嫌い、ひとつひとつ断って結果として出たのは身長と体重だけ。とんでもない不良患者でした。

そのあなたが「諏訪中央病院はちょっと変わってて、病院らしくなくていい」と、検査をさせてくださいました。

6年前、パーキンソン病と前立腺がんが見つかりました。

あなたは転んでもただでは起きない人です。

パーキンソン病をラジオで語って、百十数万人いると言われているパーキンソン病でお悩みの方たちに勇気を与えました。

いつも弱い人や困っている人の、あなたは味方だったと思います。

前立腺がんも無理な治療はしたくないということで、ホルモン療法を行いました。女性ホルモンを使う薬です。あなたは僕に「鎌ちゃん、男のおばさんになっちゃったよ」って。でも、もともとあなたは男のおばさんでした。

いつも冗談を言いながら上手に、病気に負けない生き方を選んできたように思います。

2011年、転んで骨折をし、病院に入院しました。

ご家族から「しゃべるのを止めなくなりました」という電話がかかってすぐに飛んでいきました。一時的なせん妄だったのです。あなたはベッドの上で、ラジオの生放送をしているつもりで、しゃべり続けていました。ラジオがこんなに好きなんだなと、しみじみと思いました。

すぐに復帰し、本物のラジオに出ました。

それから3ヶ月後、ご一緒に福島の被災地に行きました。往復6時間もかけて、車いすで行かれてそしてたった15分。でもその15分がすごい中身のある濃い話を。被災者が初めてこんなに腹を抱えて笑ったという。みんなを笑わせて、あっという間にまた、東京に戻りました。

いつもあなたは弱い人の味方をし続けている。

僕がやっているNGOの活動にもいつも応援をしてくださっていました。本当にありがとうございます。

今年の4月、だいぶ弱られて僕は病院にお訪ねをしました。

あなたも、ご家族も在宅療養を望んでおりました。そしてお家へ帰るために、万が一のための点滴を痛くなく入れられるようにポートというものを設置させていただきました。

それから2ヶ月、あなたは大好きなお家でご家族といい時間を過ごしました。

お見舞いが来ても、どうも聞くところによると、死んだふりをしたり、寝たふりをしたり、それでもぱっと目を開けて、家族とはいい時間を過ごしたようです。

亡くなる前の日、大好きなアイスキャンディーをなめて、「おいしいね」って。それがあなたの最後の言葉だと。

あなたが22年前、『大往生』という本を書いてベストセラーにしました。そのころ、僕たちの国は死を語ることはタブーでした。あなたが、死を語ることを切り開いてくれたんです。

それによって僕たちの国の緩和医療は数段ステップアップをすることができました。あなたがいつも「自分の命は自分で決める」「無理な治療はしない」。それがあなたの口癖でした。最後までその通り、生き抜いたと思います。見事だったと思います。

この頃、僕たちのこの国の空気はちょっとおかしいです。

こんな時ほど、永六輔が必要。永さん、あなたが必要。

とても、とても残念です。

長い間本当に、ありがとうございました。

 

返礼品は自筆のタペストリーとカード

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11時からの参会者には、お別れ会の記念として、藍染めのタペストリーとカード2枚セットが配られました。

タペストリーは永六輔さんが愛用していた藍染の作務衣を制作していた雀倉玄照堂のもの。

永六輔さんの自筆で「生きているということは誰かに借りを作ること 生きてゆくということはその借りを返してゆくこと」という歌詞とサインを染め抜いてあります。

カードは、1枚は篠山紀信さんが撮影した永六輔さんの写真。裏面には自筆の歌詞とサインがあります。

もう1枚は、ご本人が描いた魚(エイ)の絵ハガキです。

 

「六輔 永(なが)のお別れ会」式次第

開会の辞

司会 きたやまおさむ

発起人代表ご挨拶とお別れの言葉

黒柳徹子

各界からの想い出・お別れの言葉

矢崎泰久さん・小出孝之さん・下重暁子さん・久米宏さん・中山千夏さん・鎌田實さん・遠藤泰子さん・小林亜星さん

*絶稿朗読

朗読:育之助   音楽:高田みどり

送る歌

歌:ジェリー藤尾   ピアノ演奏:前田憲男

遺族代表謝辞

永麻里

奉納 太鼓

林英哲

参加者献花

一般献花

 

楽しいことが大好きだったという、永六輔さんのお別れ会。参会者のお別れの言葉も、楽しいエピソードがたくさん語られて、会場は終始、大きな笑いに包まれていました。

当日は青山葬儀所だけでなく、東京・港区の赤坂BLITZでも、永六輔さんを偲ぶ催し、ばらえてぃ「永六輔を送りまSHOW」が開かれました。

(小林憲行)

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