薪能とは?

小林憲行【記事監修】
小林憲行

記事監修小林憲行

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薪能とは、能や狂言を野外に設けた舞台で演じるものです。かがり火に照らされた舞台で演じられる能は、その幻想的な雰囲気も相まって、多くの観客を魅了します。奈良の興福寺や東京の増上寺など宗教行事として行われていた薪能は、1970年代ころから各地の寺社の境内をはじめさまざまな会場で行われるようになりました。

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能とは?

能とは、日本の古典芸能のひとつで、面(おもて)というお面をつけて、うたいながら舞を舞って表現する、歌舞劇です。

古くは奈良時代に中国から伝わった曲芸や奇術などの芸能、散楽(さんがく)に由来。さらに日本古来の神楽舞や、五穀豊穣を祈る田楽などが融合して生まれたといわれています。

平安時代に入り次第に短い劇のような形の猿楽(さるがく)となり、鎌倉時代末期には神や人、動物が登場する猿楽能(さるがくのう)に。さらに室町時代になって、舞の要素が強い能と、こっけいな要素の強い狂言とに分けられるようになりました。

能は、室町幕府の将軍、足利義満の保護を受けた観阿弥、世阿弥親子によって、現在にまで伝わる芸能として創り上げられました。能は安土桃山時代には、寺社の境内などに設けられた能舞台などで演じられるようになり、江戸時代には幕府の公式の芸能となります。

一方、狂言は、能と同じ能舞台で、能と交互に演じられます。当初は筋立てのみ決まっており、台詞は演じ手が即興で演じるものでした。狂言の台本が整えられるようになったのは江戸時代からといわれています。

屋外にあった能舞台

能を行う能舞台は、4本の柱で囲まれた本舞台と、演じ手が登場、退場する橋がかりなどからなります。その特徴は、舞台が客席に張り出しており、また歌舞伎などと異なり、舞台と客席の間の幕もありません。

今のような能舞台が完成したのは江戸時代といわれていますが、もともとは屋外に設けられていました。

能舞台と観客席が室内に造られるようになったのは明治時代に入ってから。能舞台に屋根があるのは、能が屋外で上演されていた当時の名残といわれています。また同じく能舞台が屋外にあったころの名残として、舞台の周りと観客席の間には白洲といって、白い小さな石が敷いてあります。

各地の薪能

戦後、復興した薪能

現在、各地の寺社や名所旧跡など屋外で催されている薪能は、かがり火に照らされた能面や、美しい能装束が神秘的な雰囲気を醸し出します。もともとは神様に奉じる神事能として行われていました。明治時代以降、さまざまな理由から、一時期はその伝統は途絶えかけましたが、太平洋戦争後、奈良の興福寺の薪御能が復興し、その後全国に広がりました。

現在の薪能は、宗教行事というよりは観光という要素も強くなり、神事能だけでなく、夕方から夜に掛けて屋外でかがり火を焚いて照明として行う能全般を指すようになりました。

興福寺の薪御能

奈良県の法相宗大本山興福寺では、毎年5月の第三金曜日、土曜日に薪御能が行われています。

興福寺の薪能の歴史は古く、鎌倉時代、能が現在のような形になる以前、猿楽や猿能楽と呼ばれていたころから宗教行事のひとつとして、修二会(しゅにえ:旧暦の2月に行われたる法会のこと)で、行われていました。明治時代以降、中断されていましたが、太平洋戦争中一時的に行われた後、戦後、復興されました。薪御能が催される時期も、新暦の3月となり、今では5月に行われるようになりました。

増上寺の薪能

東京港区にある浄土宗大本山増上寺ではその能楽堂にて、江戸時代から薪能が行われていました。戦災などによって一時中断されていましたが、1074年に新しい大殿が復興したのを機に、境内の特設舞台での薪能が復活しました。1980年から2018年までで35回の公演が行われています。

鎌倉宮の鎌倉薪能

神奈川県鎌倉市にある鎌倉宮では、神社の祭礼に奉納される神事能として、鎌倉薪能が行われています。今のような薪能が奉納されるようになったのは1959年から。太平洋戦争後、関東では初めて行われた薪能といわれています。

まとめ

能は、世界でも類をみない歴史ある日本の古典芸能で、ユネスコの無形文化遺産にも登録されています。その本来の姿ともいえる屋外で行われる薪能は、その本来の姿により近いものではないでしょうか。かがり火に映る幽玄な舞台は、古く祭礼で神様に捧げられていたという、神事としての風情も魅力です。

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