NHK「みんなのうた」や、福岡ソフトバンクホークス和田毅投手の登場曲など、話題沸騰中のシンガーソングライター、冨永裕輔さん。透き通るような歌声が織りなす曲の奥底には、幼いころの体験から育んできた、「いのち」への温かい思いがあります。
今回、8月8日のメジャーデビューを前に、その独特の世界観と死生観を語っていただきました。
目次
「世界は、自分がいなくても動いているんだ」っていう感覚
――幼いころに、大きな病気をされたと伺いました。
そもそも生まれた瞬間から死にかけていたというか。生命も危険な状態で生まれてきたらしくて、子どものころは体も弱くて病気がちでした。中でも心臓の病気にかかったのが、一番大きかったです。
幼稚園のころ、心臓の病気がわかって。何度病院に行っても「風邪」と言われて帰されたらしいのですが、最後に大きな病院で診てもらった時には、あと数十分遅れていたら死んでいたという。本当にギリギリのところで助かったんです。
長期入院となって。看護師さんとかに押さえつけられ、次から次に注射をされる。記憶ではそんなシーンが断片的に浮かんできます。こっちは意味がわからないから泣きわめいているんですけど。
ただ、この幼稚園の時に友達とかとしばらく離れたことによって、考える時間を得たというのか、ぼんやりと「何でこういうことがあるのか?」とか、「人生って何だろう?」っていう。当たり前から離れてしまったことで、逆に同世代よりも先に、いのちとか人生を考えた気がしています。
――幼稚園のころから、いのちについて考えていたというのは、なかなか珍しいのではないでしょうか。
今振り返ると、そんな時間をもらえていたのかなあと思います。
親せきがお見舞いに来て、病院からは出られないので、階段の踊り場の向こうの外の景色をおんぶして見せてくれるんです。早朝とか、博多港に貨物列車がゆっくりと入ってきて。「世界は、自分がいなくても動いているんだ」っていう感覚です。じゃあ、自分はいったい何をして生きたらいいのか? 何のために生きているのか?
順調にいっていたら、幼稚園・小学校・中学校・高校・大学・会社という流れが、何となくあります。でも、最初の段階でドロップアウトしちゃったことで、世界みたいなものを違う視点から見ることができたのだと思います。
この体験は、その後の人生のいろんな場面でも支えになっています。
――小さいころにそんな体験をされていたら、人生観も変わりそうですね。
当時もう一つ印象に残っているのは、やはり同じ病院に隔離されていたお兄さんお姉さんのことです。
プレイルームというのが病院にあって。今でも何となく覚えていますが、緑のじゅうたんがあって、積木とか絵本があるような。体調のいい日に、そこで特別に遊んでもいい時があって。僕は小さかったから、かわいがってもらい、遊んでもらいました。ラジオを聴いたり、野球盤で遊んでもらったり。僕がうまく打てるようにお兄さんがボールを出してくれて。打てたらお姉さんもすごく喜んでくれて。すごく嬉しかった。
そのお兄さんやお姉さんたちとは、その後二度と会っていません。今、元気でいらっしゃるのかどうかもわかりません。でも、自分だって病気で苦しいのに、自分よりも小さい子のために、笑顔で、優しく接してくれた。人の生きる姿というのでしょうか? 見せていただいたような気がして。
そういった経験が、今の僕の死生観につながっているのだと思います。
今でもたくさんの悩みにぶつかるし、順調にいっているような時でも悩みはすぐに生まれてきます。そんな時には、「何のために生きているのか?」にいつも立ち返るんです。
人と過ごした時間とか、その時の気持ちの交流というか、そういったものは残ると思うんです。幼い時、病院でお兄さんお姉さんが見せてくれたように、人を大事にしたか? 自分が成功するためにどこかで人を傷つけてないか? とか。最後に残るのはそこじゃないかと思うんです。
よく最期の時には、その人がどう生きたかを閻魔様が見せるという話、ありますよね? いろんな説もありますが、僕はある意味真実だと思っています。といっても、生き方によって誰かに罰せられるというのではなくて、自分で自分の人生を振り返る時間というか、何かがあるって。
歌を作っていく中で、人生の意味とか、死後のこととか。いろいろな宗教や文化、芸術などを通して、興味を持って見ています。共通している部分を拾っていくと、真実がどこかにあるのではないかな? と思うんです。
月愛三昧という言葉。その言葉を知った時に、これが必要なんだと
――生き死にをテーマにしているといいますか。冨永さんの歌を聴いていてもそんな印象を受けます。
普遍的な部分はすべての人で共通していると思います。
その上で、僕が大事にしているのが、「一人一人に光を当てたい」ということです。
会社でも家の中でも。ちゃんと見てもらえていると感じた時、人ってすごくキラキラと輝くじゃないですか? 「生きていてよかった」っていう。聴いてくれた人が、「今日の一日が誰かの役に立っていたんだ」って。自分が生きていることには意味があるんだって思える歌を広げたいんです。
世の中の痛ましい事件など、その根底には、だれも自分を見てくれてないとか、社会に活躍の場がないとか、そういう悲しさがあるんだと思います。その悲しさが怒りになって、自分を傷つける。そして、その怒りが外に向けば人を傷つけるのではないかなと感じています。
――怒りの根底にある悲しみに、歌で光を当てていくということですか?
はい。ひとつ一つ、陰の部分に光を当てていく。
仏教の言葉に、月愛三昧(がつあいざんまい)という言葉があります。
月の光というのは、明るいところだけでなく陰の部分も平等に照らしてくれる。「あなたの醜い部分も含めて平等に照らす、包みますよ」という、全てを肯定するような愛のことをいいます。その言葉を知った時に、これが必要なのだと。いい人、悪い人とかに分けて、対処していても繰り返すだけ。怒りに対して怒りで返したら、それこそ戦争になってしまいます。
――いのちについて考えて、いろいろな宗教にも興味をもって。それで歌を目指したというのは、どういう理由があるのでしょうか?
特定の宗教にこだわるということは、結局、また違いを生むのではないかと思うんです。
僕が音楽をする上で、もうひとつ大切にしているのが、「境界を越えたい」という思いです。境界線つまり、違いを無くしていきたいという。人は多種多様であって、はっきりと決めてしまえるものではありません。はっきりと区分けすることによって、かえって争いは生まれます。
宗教も含めて、僕はそれぞれの考え方の根底はきっと、普遍的で共通していると思っています。
それは、生まれて、死ぬということ。
動物もそうですし、植物もそう。これだけはみんな平等です。過去も未来も。この背景に流れている大きなルールというか。それが何なんだろう? ということを歌にしていけば、異なる国の人でも、異なる宗教の人でも、「あ、そうだよね」って伝わる歌になるのではないかなと思います。
相違はある。でも、歌になった時は一緒に認め合える
――確かに生まれて死ぬということは、すべての人に共通ですね。
こうしたこともおそらく、自分の体験で死を身近に感じたから気付いたのかもしれません。
でも、気付いてしまったら、もうほうってはおけないですよね?
他人事だからって何もしなければ、たぶん死んだあと後悔すると思うんです。では、僕に何ができるかな? と思ったら、音楽であって、歌であると。
音楽であれば、世界の人ともすぐにわかり合える。すごく難しいことも、音楽を通すとわかりやすくなる。歌を一緒に歌うことで「ああ、そうだよ。大事なことを忘れてた」とか、「照れくさくて言えなかったけど、本当はけんかしたくないわ」っていうように。みんな子どもみたいに純真な気持ちに帰ることができます。
――東日本大震災の後、ロスの市警でも歌を歌っていらっしゃいました。
はい。「ひまわりの花」という歌ですね。
この歌は地元、北九州のことを歌っている歌です。
故郷にいたころは、「こんな町早く抜け出して、自分の活躍の場を、自分をわかってくれる場を見つけてやる」なんて思って東京に来たんです。でも、大人になって改めて故郷について調べてみると、いろんな歴史があるんですね。ずっとつながっているいのちの連鎖の中に、自分もいさせてもらっている。そう思えた時に、やっと書けたのがこの歌です。
孤独とか挫折とか争いとか、人生にはたくさんあります。そんな中でも、太陽を、希望をずっと見上げているひまわりみたいになれたらいいなって。
この歌を福岡で歌っていた時、津波の被害に遭われた方が、たまたま僕のライブを聴いてくださって。それで「東日本大震災追悼集会ラブ・トゥ・ニッポン」っていうのをロサンゼルスでやると。「『トモダチ作戦』で東北に救援に来てくれたアメリカの人たちが集う会があるから、そこで歌いませんか」って声をかけていただいたんです。日本語の歌ですが聞いてくださったアメリカの方々は最後、ひまわりの花を振ってくれたり、スタンディングオベーションも起こりました。
この歌は中国や韓国でも歌う機会がありました。国が変われば、歴史も、政治も、考え方も、いろいろ相違はあります。でも、歌になった時は一緒に認め合える、違いを越えていけるということを体験できました。
僕は、根底にあるのは全部同じだと思うんです。人を、それぞれの人生を尊重して肯定する。その人を尊重して肯定していのちを輝かせる、そういう歌を書きたいと思っています。
誰かの悲しみは、やはり誰かが受け止めてあげると、いろんな問題は解決していく
ライブでは、保育園・幼稚園・小学校・中学校・高校などにも行っています。
小さな子どもはノリのいい曲を歌うとみんな飛び跳ねてくれたりします。小学校の4年生ぐらいまではそんな感じですけど、学年が上がるとやはり恥ずかしがって。5、6年生は「何か質問がありますか?」と言ってもツンとしてるのですが、あとから手紙をくれたりします。
中学生はまた難しいのですが、高校生になると今度はだいぶ大人になって、一緒にライブを盛り上げようとしてくれたり。学校によっても雰囲気は全然違いますね。
そういう中で、楽しい歌を通しながら、「自分らしさが一番の宝物だよ」ということを伝えています。
小学生に「何になりたい?」と聞くと、いろんな答えが返ってきます。「安定した仕事」みたいな答えも返ってくるんですよね。でも、それを目的にしちゃうと自分の可能性をおさえていっちゃうことにならないかな? と。もったいないと思うんです。それだけでは、その子が生まれてきた目的から、それてしまうのではないでしょうか。
僕自身、歌手になるって進路を決めた時は、みんなに否定されました。でも、安定した道に行った方が安全だと思って就職していたとしたら、次に分かれ道にぶつかった時に、絶対に勝負ができなくなっていると思います。どの道を選んでも苦労は絶対にある。ならば、その先により大きな楽しみがありそうな道を進んだ方ががんばれると思って、こっちの道を選んだんです。
「宝物は自分の心に咲く花なんだよ。生まれた時の願いを咲かせればいいんだよ」って。そういう気持ちを子どもたちにも伝えられたらと思っています。焦らなくても大丈夫だから。今、自分の心がワクワクすることを耕して。それがやがて、家族を守る力にもなる。自分らしさが、人を守れる勇気になるんだって。
では、どんな時にそういうことに気付くかというと、人から感謝された時。「ありがとう」って言ってもらえた時に、「あ、生きてていいんだ」って思えるのではないでしょうか。
――葬儀社の方に、仕事の魅力を尋ねると、「『ありがとう』という言葉をいただける」という方がたくさんいらっしゃいます。
葬儀の仕事をされている方って、一番つらい時に支えてくれる存在ですもんね。
僕自身、身内の葬儀の時に葬儀社の方が動じないでいてくださって、お悔やみの言葉を掛けてくださったりした時には、「救われた」と感じました。
誰かの悲しみは、やはり誰かが受け止めてあげるというのが社会に広がっていくと、いろんな問題は解決していくと思います。
僕はそれを歌でやりたい。
少しでも役目を果たせたなあと思って死ねれば、「ああ、よかった」と思えるのではないでしょうか。死を意識しなければ、あまり考えないことかもしれません。
――根本の部分というか、ずっと先の方に、いつも死というものを見据えているようですね。
そうですね。歌を作る時は可能な限り、根底にはそういう死生観というか。何百年後に歌われても、プラスの何かを放って広がるような歌を作りたいとは、いつも意識しています。
例えば、お経も歌みたいなところがあるじゃないですか? もしも単に言葉だけであれば、これまで伝わって来なかったと思います。何百年何千年も前からあって、今もあって、きっと何百年何千年後もある。それが脈々と残っているというのは、普遍の真理と音がそこにあるからでしょう。
歌を作る時には、一曲一曲、人生とかいのちとか、そういうものと向き合います。それが歌になって届けられた時に、昇華していく感じがして。
自分自身の悲しみとか暗い部分と向き合って、それがやっと歌になった時は、自分の悲しみが昇華するし。ほかの人の人生、悲しみ・怒りに向き合って、それが歌になった時はそれが昇華するし。ライブのお客さんひとり一人の家庭の事情であったり、仕事の悩みなどが、歌を聴いて「いやされた」って感じてもらえた時、それも昇華していくような。
シンガーソングライターという生き方は、本来、宗教者に近い部分はあると思うんです。昔でいえば、人を救いながら各地を旅したお坊さん。作品を残したり歌を残したり、そういう生き方に似ているのかもしれません。
不便な世界にわざわざ来ているのだから。生きているってことはそれだけで意味がある
――はじめて歌を作られた時は、どんな歌を作っていたのですか?
10代の思春期だったので、恋の悩みというのか、そういう歌だったと思います。
その後ちゃんとした歌ができたのは19歳の時。大学で上京して作った、「すずなり」という歌です。
「すずなりの出会いと別れが 行き交い続けるこの世界で 過ぎし日の僕らの夢が埋もれないように祈るだけ」っていう。最期の時に人生を振り返っていて、たくさん浮かんでくる想い。例えば人生の断片、その時その時で一緒にいてくれた人とか、自分以外は誰も知らない。自分が死んでしまえば、もう誰も語る人もいない。今はただ、そんな想いの数々が埋もれてくれるなと、祈ることしかできないという歌です。
処女作にはその作家のすべてがあるとは、よく言われますが、僕もそうだと思います。
はじめて東京に上京してきた時、新幹線が東京駅に近づいてくると、京浜東北線とか山手線とかがだんだん並走してついてくるんですね。でも九州に戻る時は、東京駅を出た時は一緒に走っていたのが、やがて違う方向に別れて見えなくなっていく。そういうのを見ていて、人生と一緒だなって思って。ここにもやはり死生観というか……。
一緒に並んで走っているって錯覚しているけど、行きつくのは違うところ。東京駅で行き交う電車を見ていると、その時その時の人生で、恋人とか家族とかと一緒に過ごしているけれど、やがては別れがある。添い遂げようとしても、いつか死別は絶対にある。仏教でも、人生の避けられない苦のことをいわれています。それに似ていると思って歌を書きました。
生きることは苦しみであるとお釈迦様が言ったそうですが、あの世というのは、この世に比べればきっといろんなことが思い通りにいく世界だと思うんです。
想像ですが、おそらく肉体がないぶん、心と心がもっとダイレクトに伝わり合う。だとしたら、うそ偽りもないですよね。うそ偽りがなく一緒にいる人たちっていうのは、本当の意味で、いい関係でいられると思うんです。
だけど、この世界は肉体があるし、思い通りにいかないことも、うそ偽りもたくさんある。そんな不便な世界にわざわざ来ているのですから。生きているってことはそれだけで意味があると思うんです。
体があって言葉があるがゆえに、反対に心が通じ合えなかったり、わかり合えなくて。「なんでそうなっちゃうんだよ?」ってことだらけじゃないですか?
だけど、それを僕らは望んでこの世に来たんじゃないかなと思うんです。
そのがんじがらめの設定の中で、一生懸命苦労しながらわかり合っていく。そこにドラマがあるというか。
きっと死んであの世に帰った時に、「よくがんばったね」って、もしかしたら、みんなでこの人生を映画みたいに鑑賞するのかもしれないですね。その時に、生きてるうちは誰にも気付かれなかったような善い行いとかに、きっと拍手が起こるんじゃないでしょうか。
「大事な家族を亡くした人の心に寄り添うような歌を書いてちょうだいね」
実は、「亡くなった人への歌を書いて」と言われることもよくあるんです。
以前、路上ライブをしていた時に、目の前を相当な数の人が通り過ぎていく。その中で数人が声掛けてくれたりして。
で、ある時声を掛けてくださった方がいて、その方はお子さんを亡くされた方だったんです。「いい子ほど早く逝くっていうけど、ほんと、いい子だった」と。「大事な家族を亡くした人の心に寄り添うような歌を書いてちょうだいね」って、とても素敵な笑顔で言ってくれたお母さんがいました。
いつかそんな歌を書きたいと思っていたのですが、今回、あるお坊さんに教えてもらって、『今は亡きあの人へ伝えたい言葉』という書籍とご縁いただきました。
亡くなった方へ綴った手紙を本にまとめたものですが、一通一通のお手紙に、生きているうちには言えなかった思いが、行間にもあふれています。そこには後悔も見えるし、やっと素直になれて、言っておけばよかったっていうようなものもたくさんありました。こうした思いを題材に、歌を作りたいと思いました。
大切な人を亡くしたりしたら、「あの時こう言っておけばよかった」っていう思いは絶対に、たくさんあると思います。その中のいくつかでも、生きている間に言えたら、またその人との間は変わっていくと思うんです。
手紙を書かれた方々、残されたご家族の悲しみに寄り添える歌。もっといえば、大事な人と幸運にもまだ一緒に過ごしている人にその歌が届いた時に、「ちゃんと『ありがとう』って言おう」とか、「『ごめんなさい』ってまだ言えてなかったけど、言おう」とか、「大切な家族、もっと大切にしよう」とか、そういった気持ちになれるような歌が作れたらと思っています。
――歌ができたら、ぜひ聞きたいです。本日はありがとうございました。
冨永 裕輔(とみなが ゆうすけ)
福岡県出身のシンガーソングライター。ラジオパーソナリティー。
早稲田大アカペラサークルを経て2007年プロデビュー。NHKみんなのうた。 NHK北九州放送局80周年記念きたきゅうのうたグランプリ「ひまわりの花」 、福岡ソフトバンクホークス和田毅投手登場曲など、数々の楽曲を手掛けている。
2018年8月8日には、アルバム『シルクロード』でメジャーデビューが決定している。