蜷川幸雄さんご葬儀。皆で送る「合同葬」でした

2016年5月12日、肺炎による多臓器不全のため亡くなった演出家、蜷川幸雄さんのお葬式が、16日午後12時、東京・港区の青山葬儀所で行われました。

日本を代表する演出家のお葬式には、昨夜行われた通夜と合わせて2日間で約3,000人もの人々が集いました。

お葬式の後は、大勢の人々が拍手で見送る中、故人を乗せた霊柩車が桐ヶ谷斎場へと発って行きました。

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日本を代表する俳優、女優さんたちによる弔辞

出棺の後、マスコミの取材に答える藤原竜也さん

出棺の後、マスコミの取材に答える藤原竜也さん

式では、平幹二朗さん、大竹しのぶさん、吉田鋼太郎さん、小栗旬さん、そして藤原竜也さんら、5名の日本を代表する俳優、女優さんたちが弔辞を読みあげました。

平幹二朗さんの弔辞(全文)

弔辞。

とうとうこの時が来てしまいました。

『ハムレット』の稽古初日、やせ細って車いすに座るあなたの声の弱々しさに、胸が震えました。

でも、だんだん稽古が積み重なって、そのうちに、とても大きな声で怒鳴り散らすあなたの姿に、あわや蘇ってきているのだなと、嬉しく思っていたのに。

薄れゆく記憶を呼び戻せば、芝居で出会ったのは、あなたが40歳、僕が42歳。三島由紀夫作『卒塔婆小町』の99歳の老女を、僕が演じたときでした。

千秋楽が近づいたとき、この人とは長く付き合うことになるだろうなという予感がしました。

事実それから40年。まあ、不本意なブランクの 10年もありましたが、『王女メディア』『近松心中物語』『タンゴ・冬の終わりに』『テンペスト』『リア王』などなど、あなたと四つに組んだ17本の芝居。

僕の宝です。

充実した演劇人生を生きることができました。本当にありがとう。

でもあなたは、一度も僕の演技をほめてくれませんでしたね。シャイなのだということはわかってましたが、僕は何とかしてあなたから、ほめ言葉を引き出したくて、熱演に熱演を続けました。肺を痛めてしまうまで。

本当はもう少し理知的に演じれば 良かったかもしれません。でも、あなたの中の怒りと、熱情に突き動かされ、僕の中のマグマが燃え上がってしまうのです。

その火はまだ、冷えてはいません。あなたがいなくなった後、この焔(ほむら)を誰に受け止めてもらえるのか。

まるで……、シャーロックホームズに死なれたワトソンのように、途方に暮れてます。ドラマのシャーロックのように、生き返ってほしい。

でも今はあなたの怒りと、熱情を安らげてください。

さようならは言いません。『タンゴ・冬の終わりに』の中の一節をささげます。

「僕らはまた近いうちに再会する」。

蜷川幸雄様。



2016年5月16日 平幹二朗

大竹しのぶさんの弔辞(全文)

「俺さ、日常捨てたから。俺さ、まだ枯れてないよ。だからさ、もう一本、何か芝居つくろうよ」

すばらしかった『リチャード二世』観劇後の私に、蜷川さんがおっしゃってくださった言葉です。

そしてその言葉通り、「リハビリする時間があるなら稽古場へ行きたい」とおっしゃり、その後も何本も芝居をつくりあげました。

本当にすさまじいエネルギーと信念で、最後まで、走り続けられました。

こうしている今も、私は蜷川さんに出会えた喜びと、そして感謝の言葉しか浮かんできません。

 稽古場に響き渡るあの怒鳴り声、ほかでは決して味わえることができない、あの心地よい緊張感。いい芝居をした時に見せてくださるあの最高の笑顔。

それらはこれからの私の演劇人生の中で、色あせることなく、輝き続けることでしょう。

蜷川さんにもう会えないことが知らされたあの夜、『身毒丸(しんとくまる)』に出演していた、当時小学生だった男の子からメールが届きました。

「しのぶさん、僕悲しいよ。僕ね、早く大人になって、もう一度蜷川さんのお芝居に出たかったの」

どれだけ多くの人がそう思っていることでしょうか?

『マクベス』で初めて海外公演を経験させていただいた時、本番前の劇場の客席を私は嬉しくて走り回っていました。

自分という人間を知らない人たちの前で、純粋に芝居ができるという喜びでいっぱいでした。

そんな私を蜷川さんは本当に嬉しそうに見て、おっしゃいました。

「ねえ、俺がさ、海外に出る理由わかる?いつも勝負していたいんだ。客観的なところに自分を置いて。追い込まないとさ、ダメになっちゃうだろ?」

蜷川さんのそんな思いが、日本と世界をつなげているんだということを、実感しました。

9日にお見舞いに伺った時も、苦しい呼吸の中で必死に生きようとされていました。

「まだやれる、まだつくりたい芝居があるんだ」

そんな声が聞こえてくるようでした。

目の前のテーブルには、今年つくる予定だった台本が3冊置いてありました。

「蜷川さん、稽古場でお待ちしていますね」

私は少しだけ大きな声で話しかけました。

するとその瞬間、はっきりと目を開けてくださり、私たちは数秒間、見つめ合いました。

そうなのです。稽古場にいなくては、劇場にいなくては、蜷川幸雄は、蜷川幸雄ではないのです。

今あなたがいなくなって、私たちはこれからどうすればいいのでしょうか?

でも私がニューヨークで走り回ったように、劇場という場所には、その塵にさえ、先人たちの魂が宿ると言われています。

あなたの魂の叫びは、いま世界中の劇場に、それを見た観客の心の中に、そしてもちろん、私たちの中に、永遠に残っていきます。

それを胸に私たちは、芝居を続けるしかないのです。

「どうだぁ?」と蜷川さんが、いつふらっと稽古場に現れてもいいように、一生懸命演劇を続けていくしかないのです。

だから、蜷川さん。

稽古場でお待ちしています。いつも、いつの日も。

本当にありがとうございました。



親愛なるニーナより

吉田鋼太郎さんの弔辞(一部)

蜷川さん。

そちらに行ってしまわれる前に『尺には尺を』の稽古場を訪ねて稽古を見学させていただき、その後、竜也と落ち合ってお見舞いに行かせていただきました。

その時の蜷川さんの姿を見た竜也の顔が忘れられません。

母犬と外れて雨の中で行き場を失った子犬のような顔をしておりました。

耳元でしゃべりかけると、苦しい息の中、何度か手を動かして答えようとしてくださいました。

「『テンペスト』演ろうって言ったじゃないですか?プロスペローを演らしてくれるって言ったじゃないですか?」って僕が言うと、少しだけ目を開けようとしてくださいました。

それは、渾身の力を振り絞るように見えました。

蜷川さんはずっとずっと闘い続けてまだ、ベッドの上で戦おうとしていらっしゃいました。

僕には到底できないことだと思いました。

棺にお入りになってからの蜷川さんのお顔を僕は見ておりません。

ベッドの上で戦う蜷 川さんの顔を、目に焼き付けておきたいと思ったからです。でも、とても安らかで美しいお顔をしていると聞いています。

今日、そちらに行く前の蜷川さんの眼 に、平さんや、大竹さんや、りえちゃんや、尊晶や、勝村や、阿部ちゃんや、桃李や、小出や、松本潤や、淳平や、新川や、塚本や二反田が、きっとずっと集まって、みんながずらっと並んでいて、蜷川さんが……、蜷川さんのキューをワクワクドキドキしながら待っている。

蜷川さんがいつものように少し甲高い、よく通る声で、「いいかい?いくよ。よーいドーン」って言ってる姿が、風景が、蜷川さんの眼に映っていたんじゃないでしょうか?

もう少ししたら会いに行きます。シェイクスピアもまぜてやって、一緒に芝居しましょう。

もう少し待っててください。



(*前半部分、一部聞き取れない部分があったため、一部のみを掲載しています)

小栗旬さんの弔辞(全文)

昨日の晩、鋼太郎さんが「蜷川さんは台本を持つのは嫌いな人だから、俺たち弔辞は読まずにいこう」と言ったのに、今日、鋼太郎さんが読んでいたので、僕も読ませていただきます。

僕がこんなところに立って蜷川さんに何かを言うなんて「バカ、小栗。お前に言われることなんて何にもねえよ」って笑われちゃいますね。

いろいろ考えたんですが、あまり堅苦しくても、砕けすぎても怒られそうなのでなんとなく行きます。

蜷川さん、どうします? 予定していた僕との公演。

嫌われて、俺も勝手に嫌って。仲直りしてもらって。やっと一緒にできると思っていたのに、あんなにしっかり握手もしたのに、約束したのに、悔しいです。

蜷川さんと過ごさせていただいた日のことをたくさん思い出していました。

なんででしょうね?

輝かしい思い出の日々のはずなのに、怒られたことばっかりが出てきます。

本当にお前みたいな不感症とは二度と仕事したくない。へたくそ。雰囲気。単細胞。変態。

「はー、君おじさんになったね。なんかデブじゃない?デブだよ。デブ。なありえちゃん、 そう思わない?ピスタチオみたいな顔」

あ、この最後のは竜也に言われた言葉でした。

もっとうまい文句もいろいろ言われたんですけど、その辺は右から左に流していたんで忘れちゃいました。

先日、もう会うことのできなくなってしまった晩、いてもたってもいられなかった数人で集まり、蜷川さんとの思い出話に花を咲かせました。

その時、やっぱり僕らは蜷川幸雄という人間を中心にした大きな劇団の一員だよねという話になりました。

本当にそう思います。なぜならそれぞれが蜷川さんの優しさと気配りと、その後の思いやりを感じているからだと思います。

僕をこの劇団に入れてくれて、「何でみんな小栗のカッコ良さに気付かないんだろうな?大丈夫、ぜったい俺が伝えてやる」と言って、見たことのない数々の景色に連れて来てくれて、信じてくれて、ありがとうございました。

今僕がこの場所にこうやって立っているのは、間違いなく蜷川さんの劇団の一員にしてもらったおかげです。

まだ僕はちょっと若いので、会いに行くのはたぶんまだまだしばらくかかってしまうと思いますが、僕が会いに行くまでに、そっちで新しい『ハムレット』の演出を考えておいてください。

その日に、「ダメになったな」と言われないように、僕は僕でこちらで苦しんでみようと思います。

でも不安だから、時々で良いから、こっそり夢にでも叱りに来てください。

待っています。

休むのが嫌いな蜷川さんだったから、きっとゆっくりなんてしてないだろうけど、少しはゆっくり休んでください。

僕の生意気をいつも受け止めてくれてありがとうございました。

とことん躍らせてくれてありがとうございました。

道を照らし続けてくれて、本当にありがとうございました。

藤原竜也さんの弔辞(全文)

「その涙は嘘っぱちだろう」と怒られそうですけど。

短く言ったら「長く言え」と怒られ、長くしゃべろうとすれば「つまらないから短くしろ」と、怒られそうですが。

まさか蜷川さん、今日、僕がここに、立つことになろうとは、自分は、想像すらしていませんでした。

最後の、稽古というかね……言葉で。

蜷川さん、弔辞。

5月11日、病室でお会いした時間が、最後になってしまうとは、ごめんなさい。本当に申し訳ないです。

先日ね、公園で一人、『ハムレット』の稽古の録音テープを聞き返してみましたよ。

恐ろしいほどのダメ出しの数でした。

瞬間にして心が折れました。

「俺のダメ出しで、お前に伝えた、ことはほぼ言った。今は、すべてわかろうとしなくても……いずれ理解できる時が来るからと。そしたら少しは楽になるから……。

アジアの小さな島国のちっちゃい俳優にはなるな。

もっと苦しめ、泥水に顔を突っ込んで、もがいて、苦しんで、本当にどうしようもなくなった時に手をあげろ。

その手を、必ず、俺が引っ張ってやるから」と。

蜷川さん、そう言ってましたよ。

蜷川さん悔しいでしょ?

悔しくて泣けてくるでしょ?

僕らも同じですよ。もっと一緒にいたかったし、仕事が、したかったです。

こんなにも蜷川さん、たくさんの先輩方、同志の方たちが、たくさん来てますね。

蜷川さんからの直接の声はもう、心の中でしか、聞けません、けれども。

蜷川さんの思いを……、ここにいるみんなでしっかりと受け継いで、頑張っていきたいと思います。

気を抜いたら……、馬鹿な仕事してたら……、怒ってください。

1997年、あなたは僕を生みました。

奇しくも、蜷川さん、昨日は、僕の誕生日でした。

19年間、苦しくも……、まあ、ほぼ憎しみでしかないんですけどね、蜷川さんに対しては。

本当に最高の演劇人生をありがとうございました。

蜷川さん、そいじゃ、また。

世界各国から届いた弔電

各国から届いた、蜷川さんの死を悼む弔電も奉読されました。

セルマ・ホルトさん

おやすみなさい。

優しい王子様。

天使たちの歌声を聴きながら、お眠りなさい。

 『ハムレット』より

愛をこめて、セルマ

ロンドン・バービカンセンター  トニー・ラックウェルさん

追悼の意と、多くのかけがえのない思い出に、感謝をこめて。

ニューヨーク リンカーンセンターフェスティバル ナイジェリ・レッテンさん

蜷川さんの訃報を知り、リンカーンセンターフェスティバルの全員が深い悲 しみに包まれました。

現代のもっとも偉大な演出家の一人がこの世を去ってしまいました。

『近代能楽集』をはじめ、『ムサシ』、そして昨年は『海辺のカフカ』と、多くの蜷 川さん作品を上演できたことを、リンカーンセンターフェスティバルはとても誇りに思います。

蜷川さんによって融合された、日本と西洋の幻想により、観客たちは全く新しい視点で、作品を見ることができました。

彼は一つのシーンから次のシーンのつなぎ目を感じさせない舞台風景をつくり上げる達人でした。

『近代能楽集』の落ちてくる椿 『ムサシ』の揺らめく竹林、『(海辺の)カフカ』の素晴らしい猫たちなどの、素晴らしい舞台風景は、ずっと頭の中に残り続けます。

蜷川さんは演劇界に多くのもりを与えてくださいました。

お悔やみ申し上げます。

カズオ・イシグロさん

蜷川さんがご逝去されたというとても悲しいニュースを今、知りました。

蜷川さんのご家族に、妻、ローラと私から心からのお悔やみを 申し上げます。

なんて悲しい日でしょう。

そして、なんて大きい損失でしょう。

しかし、彼は素晴らしい人生を送られました。

蜷川さんにお会いできたこと を本当に光栄に思います。

彼は、私たちに非常に多くのものを与えてくださった偉大な芸術家です。悲しみとお悔やみをこめて。

どの時期をどの角度から切っても、幸せな人生だった

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出棺の前のお別れの儀では、親族が故人に最後のお別れを告げた後、喪主である妻、宏子さんに代わり、長女の実花さんが集まった人々にお礼の挨拶をしました。

実花さんの挨拶(全文)

本日はお忙しい中、父、蜷川幸雄の葬儀にご会葬いただいて、本当にありがとうございました。

本当に最後まで戦って、現役のまま駆け抜けた人生だったと思います。

生前、口癖のように「やりたいことしかやってないので、後悔はない」と話していました。本当にどの時期をどの角度から切っても、幸せな人生だったと思います。

ただ、父の書斎に行くと、これからやる予定だったいくつもの台本が置かれてあって、それらを目にすると、あー、まだいっぱい見たかったなと、まだまだやりたかっただろうなと、残念でなりません。

もう、新作を見ることはできませんが、これからは残された私たちが、父のあのマグマのような演出を引き継いで、ひたすら前を向いて走っていこうと思っています。

たくさんの皆様の愛に包まれて、本当に幸せに旅立てると思います。

今日は本当にありがとうございました。
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出棺を見送る参列者たち

BGMは舞台の音楽で

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会場には、これまで蜷川さんの作品で用いられた音楽が、開始前からBGMとして式場中を流れています。

敷地内には別途祭壇が用意され、ファンの方がお焼香できるよう用意されていました。

今回、お焼香は1回焼香です。

それぞれの宗旨や宗派、その寺院の考え方によってもいろいろな作法がある“お焼香”ですが、故人が著名人で広く一般に知られていたような場合には、おおぜいの参列者が集まることを考慮して「心を込めて1回、お焼香をする」という場合もあります。

合同葬って何?

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蜷川さんのお葬式は、ご遺族である蜷川家のほか、公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団、株式会社東急文化村、株式会社ホリプロ、株式会社舞プロモーションの4つの団体が合同で行う、合同葬でした。

合同葬というのは、遺族と企業や団体などが葬儀をともに主催して行うお葬式です。

家族で営む家族葬と、大勢の方でお別れする社葬を一緒にするお葬式というイメージです。

社葬やお別れ会などでは一度、遺族でお葬式を終えてから、日を改めて骨葬でお送りするのに対し、合同葬では遺体でお別れをし、皆で出棺をするという流れが多いようです。

宗教については喪家の宗教・宗派で行うことが一般的ですが、お葬式の費用の負担については喪家と、企業や団体などが話し合いなどで決めて、分担します。

また最近では、社葬のようにお葬式の社会的な意味合いも大切にしながら、より自由度の高いお別れのかたちとしてお別れ会を希望する遺族も増えているようです。

(取材:草川一 / 文:小林憲行)

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