【終活映画】『洗骨(せんこつ)』習わしに見える、核家族時代に迫るグリーフ

10年位前に、沖縄の遺骨供養として洗骨という風習があることを教わったことがあります。遺体は風葬にして自然のまま朽ちてゆく時間を待ち、遺族がその朽ちた骸遺を墓から出してきれいに洗い清めて改めて遺骨として埋葬するという儀式です。

後に沖縄スタイルの墓を知る機会にもなるのですが、興味をもって調べてもなかなかその風習を記したものにあたることがなかったものでした。ですからこの映画はとても待ち遠しく、東京に先駆けて封切られた沖縄へ安売りの航空チケットを調べながら仕事の休みと照らし合わしていたりした一月を過ごし、ようやくその映画を鑑賞することができました。

Adsense(SYASOH_PJ-195)

『洗骨』の物語

映画は死化粧を施された妻恵美子のアップから始まります。

節だらけの板材で拵えた小さく簡素な棺に、あおむけで足を折り曲げるようにして納棺された母の髪をなでる娘、ひとり酒をあおり無言の夫、長男は嫁と冷ややかな視線を交わすのみという独特の雰囲気の中で出棺の時間を迎えるのです。

それから4年、いよいよ洗骨の時ということで、父信綱がひとりで守る家に集まる家族がいました。家族を伴わずに単身で帰省した長男剛、臨月の腹を抱えて周囲を驚かした長女優子、父、綱吉は亡き妻を忘れられないまま泡盛をあおり、毎夜布団を並べて敷いて窓も明けないような暮らしがつづいており、それぞれにそれぞれの痛みを抱えていたのです。

この優子とおなかの子が、亡き人とのかかわり方や家族のつながりを考えるのにとても大きな役割となるのですが、彼女もまた家族を遠ざけるようにして何も語らないのです。

父の暮らしには、おそらくは妻を失ってからずっと支えてきた姉とその家族がいたのでしょう、狭い島での支えあうような暮らしぶりが伺えます。

この姉がすべての関係をつなぎ、慰め、励ますという大活躍がこの映画の楽しみを倍増させてくれます。

日々の暮らしの中で、子どもがつなぐ終活

周囲に迷惑をかけないようにするための終活ともいわれ、これがまた日本らしい奥ゆかしさとも聞いたことがあります。遠慮のない姉のお節介や、姉の孫が時々ピントの違うことを言ったりするのですが、こうした生活の営みに子どもがかかわることも大切なものをつなぐという事になるのだと思います。

酒に逃げるように、現実から逃避をするように父は人との交流を遠ざけます。シングルマザーを口にした妹を叱った兄がいたり、そこに長女陽子のおなかの父親が現れたり、とトラブルの現況でもあったのですが、家族にはこうしたまたワンピースが現れて歴史をつないでゆくのでしょう。彼が徐々に家族に受け入れられてゆく様子もこの映画の温かいところでもあります。

遺族の悲しみ。それぞれのグリーフ

洗骨を迎える数日前のある夜、なかなか心を開くことができない父親が、ひとり酒に酔い怪我をします。子ども二人に付き添われて深夜の診療所にて手当てを受けるのですが、あまりのその泥酔ぶりに剛は、母ではなくて、あんたが死ねばよかったんだと、とうとう怒りをぶつけます。

当の父もその言葉の重みと妻の死後からいまだに言えない心の傷が浮かび上がり号泣をするのです。家族の死別は何ともしがたい心の痛みを残すものです。その痛みは地域の支えや家族との交流で少しずつ癒えてゆくものなのですが、葬儀を終えて遠く離れ離れに暮らしてゆく家族にはその傷をいやすための時間が取れなかったのでしょう、この場で一気に思いが噴出してしまったようです。

ここで面白いのは、診療所の窓のカーテンの隙間から、医師がのぞき込み困った顔での一言。

「よそでやってよう」

劇場は笑いに包まれるのですが、遺族の痛みがなかなか周囲には伝わらない、これがまさにグリーフの一面でもあるのだと思うのです。

近親者死別による心の痛みをグリーフとよび、葬儀のプロセスや墓参り、遺族や親族との交流、思い出に浸ることなどが、グリーフから成長するためのプロセスとなりやがてこのグリーフからの成長となるのですが、この洗骨までの日をどう過ごしてゆくかもまた大きなグリーフワークであるのでしょう。そんな風に受け止めました。

翌朝、台所から聞こえる朝食の支度をのぞき込むと、そこには亡き妻が生きていた時と同じようにして、形見の髪飾りをつけた娘の姿がありました。母譲りの炊き込みご飯、沖縄の郷土料理でもあるジューシーが食卓に運ばれた時に、信綱はこれを頬張りながら涙を流すのです。涙は心を浄化するのにともて重要だと思っておりますが、振り返ると彼はきちんと泣けていなかったことに気が付きます。

こうした娘や父同様に、嫁との離婚を隠して帰省した長男でしたが、彼もまた悩みながら、心に痛みを抱えながら、それぞれに強く当たっていたのでしょう。小魚を網に追いやるスク漁が唯一男だけのシーンなのですが、これもまた彼の中の変化を助けたのかもしれません。こうしたいくつかのエピソードから彼の家族に向けたまなざしが徐々に変化をしてゆくのも、多少めんどくさいのですが、男の家族らしさとしてその存在関係を感じることができます。

「命は女がつないでゆくんだよ」

洗骨当日、そこに向かい家族三人はようやく一つになったようでもありました。

小さな島は、日が昇る東側をこの世として生者が済み、日の沈む西側をあの世と言い墓を置いているという事で、洗骨に向かいその結界の場所で主が丁寧に祈りをささげて墓に向かいます。

男手で墓は開けられ、蓋をあげたところで横たえた姿のままにシャレコウベが現れます。ここでまた暫し涙を流すのです。冒頭に見た簡素な棺はこの時に解体されるための簡易なものだという事がわかりました。当主の手により頭蓋骨が洗い清められ、当主の手に収まり親族の洗骨作業を見守ります。その向こう側では体の一つ一つの骨が洗い清められてゆくのです。恐る恐るだったその作業もやがてはそれぞれの生きている証と、命をつないでくれた故人への感謝の様子と変わります。イメージをしていた洗骨そのままでした。

作業の最後に臨月の娘優子が産気づき、ここで男達は大わらわとなります。お湯やタオルを取りに行ったはずが、鍵もたずに用を足せなかったり、ただただ慌てるだけの男たちに呆れながら、信綱の姉がこの場で赤ん坊を取り上げるといいます。

最後の最後まで、妻は生きているかの如く存在し、この世に生を受けた孫にそのバトンを渡したという最後のシーンは、劇場でぜひご覧になってください。

ぎっくり腰で動けなくなった彼女と男の慌てぶりは、会場を多いに笑わせてくれながら、娘優子のイキむ様子には緊張感すら感じるものが有りました。動けない姉に代わり娘の出産から赤ん坊を取り上げろと言われた信綱でしたが、とうとうその大役を成し遂げます。洗骨の日に命はつながれたのです。

きっと印象に残ります。

さて、クライマックスで信綱の姉が、出産のさなかで挫けようとした陽子を叱るシーンがあります。しっかりしなさい「命は女がつないでゆくんだよ」という言葉には感動すら覚えます。

私の中には、やはり女性の存在至上主義という一面もあり、どの女性がという話ではなく、 く、何かを励ましたり、動かしたりしている時、必ずそれを支えてる存在に女性がいるのだと考えています。

大島蓉子さん演じる信綱の姉の存在感たるやこの映画では欠かすことができずすべての人を支えております。加えて娘優子の存在なくして父の再生はなかったでしょう、男ならなかなか聞けないこともはっきりと言葉にして優子のおなかの子どもの存在がわかるに至った、姉の娘、その孫娘の存在はほかの男性のキャストがかすむほどです。

そして遺影撮影にまでこだわったと言われる故人の存在が、すべてを引き付けていたのでしょうね。

どっしりとした存在感でした。

今回ご紹介した映画

劇場:1月18日(金)よりシネマQ、シネマライカム、ミハマ7プレックス、サザンプレックスにて沖縄先行公開。 2月 9日(土)より丸の内TOEI他全国公開

出演: 奥田瑛二
筒井道隆 水崎綾女 / 大島蓉子 坂本あきら
山城智二 前原エリ 内間敢大 外間心絢 
城間祐司 普久原明 福田加奈子 古謝美佐子
鈴木Q太郎 筒井真理子

監督・脚本:照屋年之
音楽:佐原一哉
主題歌:「童神」(歌:古謝美佐子)

配給:ファントム・フィルム

(C)『洗骨』製作委員会 

この記事を書いた人

尾上正幸

(終活映画・ナビゲーター/自分史活用推進協議会認定自分史アドバイザー/株式会社東京葬祭取締役部長)

葬儀社に勤務する傍ら、終活ブーム以前よりエンディングノート活用や、後悔をしないための葬儀の知識などの講演を行う。終活の意義を、「自分自身の力になるためのライフデザイン」と再定義し、そのヒントは自分史にありと、終活関連、自分史関連の講演活動を積極的に展開。講演では終活映画・ナビゲーターとして、終活に関連する映画の紹介も必ず行っている。

著書:『実践エンディングノート』(共同通信社2010年)、『本当に役立つ終活50問50答』(翔泳社2015)

葬儀・お葬式を地域から探す