2018年5月16日、63歳の若さで急性心不全のため逝去された歌手、西城秀樹(本名:木本龍雄)さんのお通夜が5月25日、告別式が26日、東京・港区の青山葬儀所で行われました。会場には、西城秀樹さんが長年コンサートを開催していた大阪球場をイメージした祭壇が飾られ、お通夜には関係者1,500人、ファン2,500人、合計4,000人の人たちが、そして告別式には1万人を超える人たちが、最後のお別れに集まりました。
お通夜、告別式の施行は、株式会社JA東京中央セレモニーセンターです。
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目次
大阪球場を模した祭壇
式場の中には、大阪球場を模した祭壇が広がります。
祭壇を飾る花の本数は約1,000本。緑のミリオとスプレーマムがスタジアムの観客席を、ちりばめられたバラの花が観客を表しています。そのほかアルストロメリア、トルコキキョウ、胡蝶蘭がなどが使われています。花の間にはLEDライトがあり、祭壇を彩ります。
遺影は2001年に撮影した宣材写真。また祭壇に飾った白いマイクとマイクスタンドは西城秀樹さんが生前、愛用していた秀樹さん専用のものです。
祭壇手前には「一生青春」「大阪球場」の文字も。
大阪球場は西城秀樹さんが1974年、「ヒデキ・イン・スタジアム 真夏の夜のコンサート」を開催して以来、1983年まで、毎年コンサートを開催していました。
式場の入り口の横には、西城秀樹さんの写真をパネルにして展示されていました。
また、青山葬儀所のエントランス、受付の前に飾られた大きなパネルには、デビュー当時、西城秀樹さんとともに「新御三家」といわれた郷ひろみさん、野口五郎さんとの在りし日の姿が大きく飾られています。
ファンのお別れの場には星条旗をイメージさせる花祭壇
ファンの方のための祭壇はアメリカの国旗をイメージさせるデザインです。51本の小さなバラ、そして中央の大きな白いバラが、西城秀樹さんを表しています。
法名は「修音院釋秀樹位」
西城秀樹さんの法名は「修音院釋秀樹位」(しゅうおんいんしゃくひでき)です。
浄土真宗の法名で、院号の「修」は、西城秀樹さんの父親の院号から一字、「音」は音楽の世界で、歌を通じて世界中の人々に夢を与えたその偉大な功績を表しています。
また、「秀樹」という名前も芸名として長く親しまれたことから読み方もそのまま法名としています。
会葬御礼はバーモントカレー、通夜振る舞いもバーモントカレー
1973年から1985年まで、ハウス食品のバーモントカレーのCMに出演していた西城秀樹さん。参列者に配られた会葬御礼も、そんな西城さんにゆかりのある、バーモントカレーです。甘口と中辛が用意されていました。
会葬後の通夜振る舞いの席にも、やっぱりバーモントカレーです。
さらに西城秀樹さんのCDやDVDも、訪れた方にお渡しされていました。
西城秀樹さんのお通夜に参列した方々
西城秀樹さんの告別式
5月26日は、午前11時から、西城秀樹さんの告別式が行われました。
司会はフリーアナウンサーの徳光和夫さんです。
西城秀樹さんの告別式の参列者は、1万人を超えています。青山葬儀所の中だけでなく周辺は、最後のお別れをしようと集まった人々で溢れ返しました。
弔辞
野口五郎さんの弔辞(全文)
秀樹、君が突然去ってしまったことを知ってから何日が経っただろうか。
皆さんに、気持ちの整理がつくまで少し時間をください、そうお願いしたのだけど、どうやってこの現実を受け止めていいのか、いまだに君の言葉を、色んなことを思い出して泣いてばかりいる。
秀樹との46年間は簡単に語り切れるものではありません。こんな風に君への弔辞を読むなんて考えてもいなかった。
僕にとって君は、本当に特別な存在だった。
あるときは兄のようでもあり、あるときは弟のようでもあり、親友でもありライバルでもあって。
いつも怒るのは僕で、君は怒ることもなく全部受け止めてくれて。
今思うと僕と君との違いは、心の大きさが違うよね。つくづくそう思うよ。
いつも僕が言うことを大事に大事に聞いてくれて、何でそんなに信用してくれていたの?
訃報を聞いて君の家に向かう途中で、僕は突然思い出して妻に言った。
「秀樹の歌で『ブーメランストリート』って曲があって、ブーメランだからきっとあなたは戻ってくるだろうって歌詞だけど、でも戻ってこなかった人をアンサーソングとして『ブーメランストレート』ってどう?って言ったら、『それいいね』って秀樹大笑いして、そしたら彼本当に『ブーメランストレート』っていう曲、出してしまったんだよ」
君の家に着き、君に手を合わせ、奥さんの美紀さんと話し始めたら、秀樹の曲をかけ続けていたディスプレイから、突然『ブーメランストレート』が流れてきた。
数100曲もある君の曲の中で。
「五郎、来てくれたね」
君が僕だけに分かる合図を送ってくれたのかなって、そう思ったよ。
30年ほど前に 「チャリティーコンサートをするんだけど、その時の曲を作って欲しい」って突然言い出した。
「秀樹、僕は人の曲は作らないって知ってるだろ?」
「うん、だから作って」
「秀樹、だから作っては日本語変だから」
「うん、最後に皆で歌う曲、作って欲しいんだよ」
「秀樹、悪いけど無理だから、それできないから」
「分かってる。一応締め切りはいついつだから」
「秀樹、それできないからね」
……って別れたのに、締め切り日ギリギリにパジャマ着て譜面とデモ音源を君の家に届けた僕に、まるで僕が作ってくるのが当たり前のように玄関先で「ありがとね」って、君は笑顔で一言。
完全に見透かされてるよね。
今年になってからその曲がシングルカットされているのを知って、僕はそれまで知らなかったんだよ。シングルカットされているのは君のマネージャーにお願いして音源もらって、マルチがないからCDから君の声だけ取り出して、今年2月の僕のコンサートでデュエットした。
なぜ今年だったんだろう?不思議でならない。
コンサートを見に来てくださった君のファンの方も喜んでくださったって、奥さんから聞きました。
デビューしてアイドルと呼ばれるようになった僕らは、次はその席を後輩に譲らなければ、そして次の高みを目指さなければ、と考えていた。
その方向が僕らは一緒だった。
同じ方向を目指していた。
秀樹は決してアクション歌手ではないし、本物のラブソングを届ける歌手を目指していたことを僕は知ってる。
1993年、初めての『ふたりのビッグショー』で共演。
一緒に歌った『Unchain My Heart』『Unchained Melody』『Smoke Gets In Your Eyes』。
ハーモニーの高いパートは僕で、最後にかっこよくきめるのは秀樹。でも、僕はそんな秀樹が大好きだった。本当にかっこいいと思ってた。
お互い独身時代が長かったから何でも話すようになって、ゴルフも一緒に行った。
君が車で迎えに来てくれて、僕がおにぎりと味噌汁を用意して、「夫婦か?」なんて言い合って。
僕が「秀樹、結婚するから」って言ったときの驚いた顔を忘れない。
2月に僕が披露宴をしたときに「おめでとう」と君に握手を求められた瞬間、僕にはすぐ分かったよ。ああ、こいつ結婚するって。案の定、5ヵ月後に美紀さんと結婚した。
秋も深まったある日、妻がもしかして子供ができたかもと言い出し、驚いた僕は「明日病院に行って検査してもらおう 」と2人で話した。
そんなとき、君から突然の電話。「五郎、まだ誰にも言ってないんだけど俺子供ができた」。
産まれてみれば同じ女の子で、君んちが6月3日、僕んちが6月5日。
まじかこれ?
当然娘たちの初節句、ひな祭りも一緒に祝ったよね。
3年前、秀樹の還暦パーティーに出てサプライズでケーキを持ってステージに出させていただいた時の秀樹のびっくりした顔。今でも忘れられません。
さかのぼること44年前、1974年、この年、僕が『甘い生活』でレコード大賞歌唱賞を取れると下馬評だったけど、君の『傷だらけのローラ』が受賞。もちろん君は欲しかった賞だし、当然うれしかったと思う。でも君は僕の前では喜んだりしなかった。僕を気遣ったんだと思う。
それから2年後、2人で受賞した。そのときは握手して2人で抱き合った。
そして40年後、還暦パーティーで「僕が抱いていいか?」「何だよ」って言われたけど、僕はそんな君を抱きしめた。そのとき、君は僕のことを一瞬抱きしめ返そうとした。その瞬間に君の体の全体重が僕にかかった。
それは僕にしか分からない。
心の中で「秀樹、大丈夫だよ。僕は大丈夫だからね」そう思った。
それと同時に僕の全身が震えた。
こんなギリギリで立ってたのか?
こんな状態でファンの皆さんの前で立ってたのか?
そこまでして立とうとしていたのか?
なんて凄い奴だ。彼の大きさに驚いて、一瞬頭が真っ白になって彼のコンサートなのにサプライズで来ている僕が「西城秀樹です」って秀樹のファンの皆さんに彼を紹介してしまった。
秀樹ほど天真爛漫という言葉がぴったりな人は、僕はこれまでに会ったことがない。
何事にも真っすぐで前向きで大らかで、出会う人すべてを魅了する優しさとすべてを受け入れる潔さとたくましさ。
そんな君を慕う後輩がどんなにたくさんいたか。
僕は羨ましかったよ。
僕もひろみも秀樹の代わりにはなれないけど、まだしばらくはがんばって歌うからね。
お前の分も歌い続けるからね。
そして君を慕ってくれた後輩たちとともに僕らの愛した秀樹の素晴らしさを語っていこうと思います。
何よりも、君を愛し、支え続けたファンの方々とともに。
秀樹、お疲れさま。
そして、ありがとう。
もうリハビリしなくていいからね。
もうがんばらなくていいから。
君のかわいい子供たち、家族をいつも見守ってあげてほしい。
そして、お前の思うラブソングを天国で極めてくれ。
秀樹、お疲れさま。そして、ありがとう。
平成30年5月26日
野口五郎
郷ひろみさんの弔辞(全文)
これが僕から秀樹に送る最初で最後の手紙になります。
弔辞。
秀樹、五郎、そして僕。新御三家と呼ばれて気が付いたら45年以上の月日が流れていました。
秀樹、五郎は僕より先にデビューしていて、何も分からず芸能界に飛び込んだ僕は2人の背中を見て歩んでいくことがやっとでした。
あの頃、毎日のように音楽番組があって、2人が当たり前のようにそばにいて。でも僕の中では2人のことをライバルと思ったことは一度もなく、同じ世代を駆け抜けていく同志という思いでした。
1978年、日本レコード大賞で秀樹、五郎の2人が金賞を受賞し、残念ながら僕ひとりだけ名前を呼ばれることはありませんでした。でもその時の思いがバネになって、翌年、日本レコード大賞・大衆賞を『あなたがいたから僕がいた』で受賞することができました。
人はがんばれば、努力すれば必ず叶うんだ。それを教えてくれたのは2人の存在です。
あるとき、秀樹が40度近い高熱が出たにもかかわらずステージを務め、最後は倒れるように歌を歌い上げた。本当にファンの人のことをまず大事に考えて、自分の人生をダイナミックに生きる人なんだなって痛感しました。
そして今から2年前、2016年、ある雑誌の対談で本当に久しぶりに秀樹、五郎、僕、新御三家が顔を合わせました。秀樹は大病を患ったにもかかわらず力を振り絞ってそこに駆け付け、そして、ひとつひとつの言葉を大切に伝えてくれる。
僕はとても心打たれました。
残念ながらそれが秀樹を見た最後になってしまいました。
あのとき対談の中で、「ここまで歌を続けてきたんだから、感謝っていう気持ちをもってこれからも歌い続けていこう」そう締めくくったにも関わらず、秀樹は天国に行ってしまいました。
本当に残念です。
日本中の人々から愛された秀樹の歌。
そして笑顔。
これはこれからも人々の心の中にしっかりと刻まれていくことでしょう。
僕は秀樹のことを兄貴というふうに思っていました。というか、まず最初にデビューした五郎が長男で、秀樹が次男、僕が三男。
その思いは今でも変わっていません。
これからも秀樹の背中を見て、心の中でそう思って、ずっと歌を歌い続けていきたいと思っています。
今まで本当にありがとう。
そして安らかに眠ってください。
ファンからのヒデキコール
出棺に先立ち、式場の中ではお花入れの儀が執り行われました。
また、式場の外では青山葬儀所に集まったファンから、アンコールを求めるヒデキコールが。それに応えて、『青春に賭けよう』が流れ出し、参列者皆が熱唱しました。続いて西城秀樹さんの代表曲『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』が。涙を拭きながらY.M.C.A.の振り付けをするファンの姿もありました。
「ヒデキ ありがとう」という感謝の言葉に送られて、棺が車に納められます。
棺の中には、ご家族の写真、ご家族からの手紙、次男が贈ったという帽子、そして大好きだったゴルフをプレーする際に、愛用していた手袋が入れられたそうです。
本来は式場の中で行われるはずだった喪主の挨拶も、集まった人々に感謝を伝えたいという喪主の意向で、式場を出て行われました。
喪主、木本美紀さんの挨拶
本日はお忙しいところ多数お集まりいただきまして誠にありがとうございました。
皆さま方の温かいお心に見送られ、秀樹さんも喜んでいることと存じます。
倒れました先月25日まで、50周年を目指しハードなリハビリに励むことができましたのも、ファンの皆さま、関係者ならびにスタッフの皆さまのおかげだと心より感謝申し上げます。
ファンの皆さまからのお手紙には秀樹さんはもちろん、家族一同、幾度となく力付けられてまいりました。
どうか秀樹さんを忘れないでいてください。
これからは残る3人の子供たちとがんばってまいります。
本日はどうもありがとうございました。
西城秀樹さん告別式の式次第
開式
葬儀委員長、副委員長、喪主の紹介
葬儀委員長謝辞
導師入場
読経
弔辞(野口五郎さん、郷ひろみさん)
弔電(ハウス食品 浦上博史代表取締役社長、ジャッキー・チェン、サザンオールスターズ)
焼香
告別式閉会
お別れの儀(お花入れの儀)
合唱
喪主挨拶
出棺
西城秀樹さんの告別式に参列した方々
出棺
1978年リリースの『ブルースカイブルー』が流れる中、今回、西城秀樹さんのお葬式を施行した、JA東京中央セレモニーセンター担当者の合図で、西城秀樹さんを乗せた車は出発しました。
青山葬儀所から西城秀樹さんを送り出すファンの方々。
式場の外にも沿道を埋め尽くす人々が、西城秀樹さんを乗せて火葬場へ向かう車にずっと手を振り続けていました。
(取材・執筆/小林憲行)