死に直面したとき、あなたはどんな言葉を遺しますか? 最期の言葉として自分の死後も伝えられる「辞世の句」。
たくさんの歴史上の人物や有名人が、辞世の句を遺しています。今回はその中でも「総理大臣経験者編」として、国のために身を粉にして働いた、総理大臣経験者たちの最期の言葉を紹介します。(和歌、俳句の体裁を取っていないものもあります)
目次
戦争が国家の利益になることはない
伊藤博文
初代総理大臣の伊藤博文は、ハルビン駅で安重根に暗殺されました。
直前に行われた歓迎会のスピーチで、伊藤はこう話したといいます。
その後駅で銃弾を受け、犯人が韓国人だと知ると「俺を撃ったりして、馬鹿なやつだ」と言ったそうです。
また、夫人によると伊藤は普段から「自分は畳の上では満足な死に方ができぬ」と言っていたようで、政治家として大なたを振るっていた彼は周りにも心の準備をさせていたのかもしれません。
九発撃って三発しか当たらぬとは、
軍はどういう訓練をしているのか
犬養毅
昭和7年の五・一五事件で暗殺された犬養ですが、頭部を撃たれてもなお話ができるほど意識がはっきりしていました。
自分を殺すためにピストルを持って現れた軍人に向かって「話せばわかる」と言ったのは有名なエピソード。その後撃たれ、血を吐きながらも「心配するな」と言い、数時間生きていました。
自分を撃った青年将校の腕を嘆いて亡くなった犬養。彼の葬儀にはチャップリンからも弔電が届いたそうです。昭和の大宰相として慕われていたのでしょう。
僕の志は知る人ぞ知る
近衛文麿
終戦後、A級戦犯として裁かれることが決まり、青酸カリによって自殺した近衛文麿。
現在までの首相経験者で、死因が自殺であるのは近衛のみです。
自殺前日に口述筆記で書いた遺書に、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない」という文に続き、この言葉を遺しています。
死後も政治家として批判されることの多い近衛文麿ですが、自身には確固たる信念があったのでしょう。
我ゆくも
またこの土地に
かへり来ん
国に報ゆることの足らねば
東條英機
東條はA級戦犯として絞首刑に処せられました。
最期は仏教に帰依し、処刑前には宗教的な歌をいくつも詠んでいます。
辞世の句として上記のものに加え、
「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」
「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」
「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」
を詠んでおり、死刑執行を目前にしても取り乱すことなく進んで絞首台に上がったといわれています。
富士山が見たい
吉田茂
強いリーダーシップで今でも人気の政治家ランキングに必ずといっていいほど入る、吉田茂。
この言葉を聞いた三女に富士山が見えるように体勢を変えてもらい、一日中富士山を見ていたそうです。死はその翌日でした。
死因は心筋梗塞でした。あまりに急だったので身内はだれも看取ることができなかったのですが、医師と看護師に見守られる中、穏やかに亡くなったそうです。
葬儀は戦後唯一の国葬、学校も官庁も半休で、テレビやラジオでは特別追悼番組が行なわれました。
吉田茂の人気ぶりがよくわかります。
さて、今ご存命の総理経験者の方々はどんな辞世の句を残されるのでしょうか。気になりますね。