『りんごかもしれない』や『ぼくのニセモノをつくるには』(どちらもブロンズ新社/刊)の「発想絵本」で大ブレイクしたヨシタケシンスケさん。
独創的なアイディアと意表をつく展開で、読者の心をわしづかみするその絵本は、海外からも高い評価を受けています。
2016年4月に出た『このあと どうしちゃおう』は、ヨシタケさんが長年あたためてきたという「死」がテーマ。ご両親と別れ、東日本大震災を経験し、その思いは一層強いものになったそうで、「家族で、カジュアルに死について話しあえるきっかけになれば」と、死に対する新しい向きあい方を提案しています。
作者のヨシタケシンスケさんのご自宅にお邪魔して、『このあと どうしちゃおう』について、お話をうかがいました。
どうして「死」をテーマに選んだの?
冗談半分に話せるきっかけがあれば、話したかったことが話せたんじゃないかって。
――死がテーマの絵本っていうのも、変わっているというか、すごく不思議な感じがします。『このあと どうしちゃおう』はどういうところから生まれたんですか?
もともと僕はイラストレーターとしてやっていたのですが、ブロンズ新社の編集者から「絵本を書いてみない?」と、お話をいただいて絵本を出させていただくようになりました。
ただ、「放っておいたら何もしない」ということは早々に見抜かれていたようで、お題をいくつか用意してくださったんです。その中に、「リンゴをいろんな視点で見てみる」という、1作目『りんごかもしれない』という絵本の原型になる企画があって、それがそもそもの始まりです。
母が本好きだったので、小さいころから家に絵本はたくさんありましたし、今でも絵本を読むのは大好きです。でも、自分が絵本を作るとなると恐れ多いし、改めて本って何だろうとか、子どもに与えるべきものは……なんて、考え過ぎてできなかったんです。
でも、イラストレーターの仕事は、「この文章を分かりやすく一枚の絵にしなさい」とか、お題がある。だから絵本も、編集者からのお題に応えることに集中することで、描くことができるということがわかったんです。
そのうち、自分で自分にお題を出せば、自分発信の企画が出せるということがわかってきて。まさに『このあと どうしちゃおう』は、自分から出させていただいた企画です。
――死をテーマに選んだのは、どんな理由があったんですか?
僕は、両親との死別という経験から、死を目前にすると死の話ができなくなると思ってました。
だからこそ、死とは関係のない時に話しておくしかないんだけど、死と関係のない時に死の話というのは縁起でもなくて、やっぱりできない。相手が大事な人であればあるほど、一番大事な話ができないままに死別してしまうということになっちゃうんです。
反対に、何もない時に「僕が死んだらさあ」っていうのも持ち掛けにくい。
でも例えば、面白い映画やドラマを見たり、本を読んだりしたときに、その感想として、「あの映画ではこの結末だったけど、僕はこういう方がいいな」という、きっかけがあると話しやすくなる。
そういうきっかけを、絵本で作れないかな?って。
死について、面白おかしく、冗談半分に話せるきっかけがあれば、両親を見送った時の僕は救われただろうなって。話したかったことが話せたんじゃないかって、思ったんです。
でも、絵本作家としてはまだ3年、本当に新人がこんなテーマで絵本を描くなんて、出版社としても冒険だったと思います。そこを理解していただいたのは、出版社の懐の深さですね。
――確かに、きっかけになるものがあると、話しやすくなりますよね。
死を扱ったものは、映画もドラマも、もちろん絵本もいっぱいあります。
ただ、どうしても喪失感や悲しさなど、「泣いてください」と感情論に偏ってしまうものが多いように感じるんです。
もちろん、それはそれで意味のあることですが、僕は、悲しませたいわけではなくて、もっとカジュアルに死の話をするきっかけがほしかった。
内容が深刻すぎて、真面目に姿勢を正して話すのがハードル高い話題って、いっぱいあるんですよね。でも冗談半分だとしても、そこに話す人、それぞれの本音が見え隠れするはずなんです。
だからどうにか、死に対して、不謹慎でもなく、悲しくもならないアプローチができないかと思いました。
親の供養みたいなものというか、親に対する思いみたいなものを何か、形に残したかったというのもあったと思います。
加えて、初めての絵本『りんごかもしれない』が出た前後で、東日本大震災があって。改めて死について話しておくきっかけがほしいと、あの時強烈に思ったんです。
今日元気だから明日も元気とは限らない。子どもだから死が関係ないわけじゃないし、お年寄りだから死を考えなければならないわけでもない。誰もがいつ死ぬかわからないところで生きているんだと、改めてわかったときに、新しい選択肢みたいなものを、誰よりも僕自身がほしいと思ったんです。
気持ちの中での「非常用持ち出し袋」、悲しいことがあったときのための訓練です。
――ヨシタケさんにとって、死ってどういうことなんでしょうか?
人が考える死というのは、「近しい人の死」のイメージなんだと思います。
自分の死と自分以外の人間の死というのは全然違うと思います。自分の死は全然わからないというか、突き詰めて言うと、死じゃないんですよね。一方で、全然知らない人の死というのも、よくわからない。
そのちょうどいいころ合いの距離感の死というのが、大体、皆さんが持っている死に対するイメージに近いと思うんです。
僕自身は、感情面に支配されたくないという想いがあるので、もし身近な人が亡くなったとしても、「じゃあその人が亡くなった後の世界でどう生きるか?」と、そっちに全神経を集中させるというのが理想です。
でも、実際には「とはいえ、理想通りにはいかないよね」となる。その「とはいえ」の部分がすごく大事だと思っています。
毎朝、「この人はもういないんだ」と思って落ち込むだろうし、喪失感にさいなまれるだろうし。でも、そういう喪失感とは別のところに、実は面白いものがたくさん転がっていて、遺された人たちが生きていくためのヒントもたくさんあるはずなんです。
生きていくために、それらを拾っていく作業が必要になってくる。
いつ大事な人が亡くなるかわからないから、亡くなってから準備していたのでは間に合わない。だから今のうちから、何があっても自分自身が楽しんでいけるというか、自分自身を取り戻せる何かを用意しておいた方がいい。気持ちの中に「非常用持ち出し袋」を持っておくようにというか、悲しいことがあったときのための訓練です。
実際の悲しみには当然かなわないし、自分が当事者になってみたら全く違う気持ちになるのは間違いないのだけれど、でもそういうことが自分の身に降りかかる可能性があるということを日々、覚悟しておくことはやはり大事なんじゃないかな。
絵本作品を発表する側としては、どれだけ「いろんなアプロ―チがあるよね」って言えるか、その選択肢を増やすということしかできないけれど、「こういう考え方もできますよね」という選択肢を、僕自身のためにも増やしたいと思うんです。
――生きていくための選択肢ですか。
死を重苦しく考えたところで、得することって何にもなかったりもします。
むしろ気軽に、楽しいことのように茶化すことで、手に入れられることもあると僕は思うんです。
もちろん、死をタブーなものにしておきたいという気持ちもすごくよくわかります。
「それはそれとして」とか「今ちょっとやめとこうか」とか、ずっと保留のままにしておく方が絶対楽です。でも、死を取り出して一度よくよく考えてみると、もっと簡単な話なのかもしれない。
何が自分にとって生きやすさにつながるかというのは、自分で探していかなければならない。探さない限りは見つからないし、目の前にあっても見過ごしてしまいます。でも日々探し続けると、探すスキルは上達するんです。
死についても、日頃からちょっとずつ考えておくと、ある日突然「こういう風に考えるといいんじゃないかな」とか「自分にとっての死のイメージってこういうことかな」とか、ちょっとずつ積みあがったものが、パーン!と形になったりする可能性が、ないとは言えないわけです。
描いていて気を付けたことは?
感情だけに頼らずに、もう少し多角的に死というものを語れないだろうか。
――亡くなったおじいちゃんが死ぬ前に「死んだらどうしたい」っていうノートを書いていて、子どもがそれを発見する……。すごく重いテーマですが、読んでみるとすごく楽しくて。描いていて特に意識したり、気を付けたこととかあるんですか?
どうすれば悲しくならないかというか、ウエットなものにならないかというのは、最後まで難しいところでした。
喪失感というか、「もう会えない」ということに触れると、誰しも途端に無条件に悲しくなっちゃう。でも、死というのは悲しいという感情だけで成り立っているものではなくて、もっといろいろな要素があるはずなんです。
感情だけに頼らずに、もう少し多角的に死というものを語れないだろうかっていうのが、一つのチャレンジではありました。
――確かに、全然悲しくないです。
あとは特定の宗教をイメージさせないように、気を付けましたね。
「死後どうなるんだ?」ということは、人間が何千年もかけて、ずっと考えてきたことです。それがまさに宗教だったり文化だったりする。その人がいないことをどのように受け止めようとしてきたかという歴史になるわけです。
ちなみに出版社でこの絵本を海外の見本市などに出したら、この本は今までの本とはちがった反応があって、中には受けいれてもらえない国もあったそうです。
これは予想通りというか、宗教がしっかり生活に根付いていて、死後の世界がもっとはっきりしている国の人にとっては、「面白い」「面白くない」というレベルではなくて、受け入れられない。
いろいろな宗教を受け入れる文化的な土壌がある日本だからこそ、「こういうのもありだよね」と思ってもらえる隙間がそこに空いているというか。そういう意味では、実は非常に日本的な本なんだなって改めて思いますね。
――おじいちゃんの神様に対する質問の中で、「寿命」についての問いは新鮮でした。
「寿命が決まってる」ってことは運命が存在するというわけで、もともとは「運命はありますか?」という質問でした。ただそれだと意味が伝わりにくいと思ったので、「寿命って決まってるの?」という言い方に変えました。
人が亡くなるということを受け止めるときに、寿命が決まっているのと決まっていないのとでは違うと思うんです。
「あの人は何歳で亡くなるということが、生まれたときから決まっていたんだよ」と言ってもらえたら、「仕方ない」と思えるかもしれない。そう考えたとき、運命という概念は便利というか。これを考えた人はすごいですよね。
僕自身の疑問も、この本のあちこちにちりばめています。こうであってほしいという希望も。作者である僕が、この本の中のおじちゃんでもあるんです。
この絵本で一番伝えたかったことは?
本当は怖かったのか?楽しみだったのか?それは誰にもわかりません。
――ずいぶん前から企画を温めていらしたそうですね?
おじいちゃんが、たくさんの人の中でポツンと一人になっている、このシーンは最初の段階から決まっていて、このシーンをどう際立たせるかという視点から、物語の前と後を考えていきました。
このおじいちゃんは、「死ぬことが誰よりも怖かったからこそ、だれよりも面白がろうとしたんじゃないか?」「本当は怖かったからこそ、死後の楽しいことを、それこそ死に物狂いで考えたんじゃないかな?」というのが、この本で言いたいことです。
実は企画の段階では、おじいちゃんのノートには遺された人への想い、感謝だったり、後悔だったりのシーンもありましたが、最終的に全部カットしました。
全部カットして、おじいちゃんが「自分がこのあとどうしたいか?」ってことだけを書いたノートにすることで、「本当は誰よりも死ぬのが怖くて仕方がなかったからこそ、自分を楽しませなけりゃ、やってられなかったんじゃないか?」ということがより際立つと思ったんです。
おじいちゃんが、死に対して、本当は怖かったのか、楽しみだったのか、それは誰にもわかりません。
その人のことはその人にしかわからない。
だからこそ、ちょっとわかりあえた瞬間には嬉しいし、わかりあいたいって思うのは、やっぱりわかりあえないという前提があるからです。
そこを丁寧に、当たり前のところを当たり前に伝える絵本にしたかったですね。
――おじいちゃん寂しそう……。でも、このおじいちゃんのノートみたいなエンディングノートがあったら楽しいですね。
基本的にはエンディングノートは遺された人に対するメッセージや事務的な連絡だったり、あとは遺産のことなんかを書くのでしょうが、おじいちゃんのノートのように、天国があるのかないのかもわからないけれど、こうなると嬉しいという、自分の希望だけのエンディングノートがあってもいいですよね。
この世に生きている人で、死んだことがある人はいません。
だからこそもっと自由に、死っていうものをとらえることもできるはずです。
天国に保険証を持って行こうとしていたり、このおじいちゃんの考える死は、今、現世での楽しさがそのまま天国でも通用するし、この世で嫌なことがそのまま地獄にも適用されるんです。おじいちゃんの想像力の乏しさというか。
でも、普通に暮らしてきたおじいちゃんですら、自分の考え方ひとつで面白いと思える天国が描ける、面白がれるというのはある意味、救いになるし、希望だと思うんです。
だからおじいちゃんが本当はどう感じていたかわからないし、おじいちゃんの死因も描いてないんです。
――そういえば、おじいちゃんの死因はわからないです。
この本の中ではおじいちゃんが何で亡くなったのか、なんとでも取れる描き方にしてあります。
僕が日頃思っていることの一つに、人が亡くなった時、亡くなった原因というか、理由がクローズアップされ過ぎなんじゃないかなというのがあります。
人災なのか、天災なのか、自然死なのか、事故なのか、事件なのか、死亡原因で死の意味合いが変わってしまうのは、変な言い方かもしれませんが、もったいない。
例えば、おじいちゃんが入院していて、亡くなったとします。まあ大往生だったなと思っていたのが後々、医療ミスだったということがわかったとします。すると、その途端に「おじいちゃんの死」の意味が変わってしまいます。
もちろん、原因に流されてしまう人の気持ちもあるのは仕方がありません。でも、遺された人にとっては、大切な人がいなくなった世界をどう生きていくかということが、最優先で考えなければいけないことだと、僕は思うんです。
どんな死の形であれ、大切な人が亡くなったら後悔しか残りません。その人が大事であればあるほど、どんなにその人に尽くしていたとしても、「何もしてあげられなかった」という思い。「ああいうこともしてあげられたんじゃないのか」「こうすることもできたんじゃないか」という気持ちしか残らないわけです。
だからこそ、その人がいなくなってしまったことをどう受け止めて、自分がどう幸せに生きていくのかを考えるべきだと僕は思うんです。
僕が死ぬときには、僕の周りにいる人が、僕の死んだ原因を悔やんだり、誰かを恨んだりすることで、残りの人生を費やしてほしくありません。それよりも、早く新しい喜びを見つけて、楽しく暮らしてほしい。たぶん皆そうじゃないかなと思います。
――新しい人生を歩き出すということですね。
実はもう一つ大事なのが、最後のページなんです。
男の子がおじいちゃんのノートを見て、「僕もノートをつくるぞ」って決心します。でも最後のページでもう飽きてしまっています。
後ろ見返しの部分なんか、ノートはあるけどもう何も書いてない。これがリアルな姿なんだと思うんです。
何かをやらなくちゃいけないと思っていても、子どもはすぐに飽きる。本の終わらせ方として、「僕もノートをつくるぞ」と決意して終らせることもできたんですが、僕は「とはいえ、そんな長続きしないよね」というところも含めて、リアルにしたかった。
ただ、三日坊主で終っちゃったとしても、そういうノートを作ろうと思った瞬間に、彼の人生がちょっと、何か変わったはずなんです。そういう一瞬のきらめきが生まれた時点で、おじいちゃんのノートには意味があったんじゃないか?
この本を読んで、自分もノートを買ってきて、何かを書き始めたなんて人はいないと思います。でも、「考えておいた方がいいよな」と一瞬でも思ってもらえたら、意味があるというか。「書いておいた方がいいし、話し合いたいよね」と思って、「でもできないよね、なかなか」という、そもそもの部分にも気づいてもらえたら、それだけで充分だと思うんです。
このあとどんな絵本をつくる予定?
僕自身が誰よりも『このあと どうしちゃおう』って思ってます。
――お墓のデザインもジェットコースターとか、いろいろ描かれてます。
最初は『お墓ノート』という、お墓屋さんを始める男の子の話を考えてたんです。
男の子が「今日からお墓屋さんをやろう」って、いろんな人の取材をして「あなたには、こんなお墓はどうですか?」ってお墓を造って、皆に喜ばれるというような。で、お墓から始まって、死をテーマにした話につながってくれればと。
お墓って死に対する考え方が、形になって表れるので、昔から興味がありました。もっといろんなお墓があったら、そのお墓を見るだけで「この人、生前は相当変な人だったんだろうな」とか、想像することもできます。
「死んだらジェットコースター型のお墓にしてね」「うん、わかった。やっとくからね」という、そういう冗談半分のやり取りってもっとあっていいはず。
それが実現されたかどうかは、本人は亡くなってしまえばわかりません。でも、「やっとくからね」と言ってもらえたら、ちょっと楽しみじゃないですか。実際には無理だったとしても、「お墓の端っこにジェットコースターの絵を彫ってもらったよ。これで勘弁してね」と、そういう譲歩もできます。
どうしてお墓という、「この世に存在しない人の記念の場所みたいなものを作ろうとするのか?」と考えると、「ずっとそこにいる」って思いたいのもあるだろうし、さらに、故人だけでなく、そのお父さん、その先祖と、自分が今ここに居ることの証としてのお墓ということもあるだろうし。将来ここに入れるからという、自分の将来の安心感としてのお墓ってことでもあるだろうし。
一つの石に込められた思いみたいなものが、すごくあるわけです。
――でも、お葬式のページはありませんでした……。
やはり、初めは「こんなお葬式がいい」「こういう風に送り出してほしい」っていうページもあったんですけど、やめました。
お葬式っていうのは亡くなってすぐのセレモニーです。何月何日、何時に行われるイベントとしてピンポイントで考えると、生々しいというか、ある意味ちょっとハードルが高い。
そこで、「作ってほしい記念品」にしました。
記念品の方が、お別れ会とか返礼品みたいな感じで盛り上がるかもしれないというか、お葬式の一環という意味合いです。
どこか南の方の国だったと思いますが、お葬式で、棺がいろんな形をしているところがあるんです。故人はエビが好きだったからエビの形をした棺に入れてあげようとか。ラジカセをほしがってたから、ラジカセの形にしようとか。自由な発想で、何とか死んだ人を楽しませたいという思いがある。分かりやすいし、美しいなって思うんです。
遺された人も、死んでしまったことは悲しいけれど、そこをどうにか、楽しもうとしている姿勢が、尊いというか、良いなと思っていて。
最近のお葬式では、想い出フォトブックみたいのものを作ったりもするじゃないですか。僕はそれを、もっとトレーディングカードみたいにしてもいいと思うんです。
「故人の偲び方って、本当にいろいろな方法があるよね」と、絵本を読んでくださった方が自分の趣味や経験、自分の感情みたいなものを当てはめて、自分の答えを出したくなってほしい。「本に隙間が空いている」っていう言い方を僕はよくしていますが、ついつい自分でも考えたくなってしまう絵本が、僕自身、子どものころから好きだったんです。
20年前、30年前と比べて、お葬式に関するハードルは下がっているはずです。昔だったら縁起でもないとか、不謹慎だとかなるところを、今だったらもうちょっとわかってもらえるというか、「こんなものがあるんだ、面白いね」って笑ってくれる人も増えているはずです。
――今後どんな絵本を作っていきたいですか?
いわゆるきれいごとで終わらせたくないというか、身も蓋もないことをちゃんと言いたいというのがあります。
大人には、立場上、言いたくても言えないことがいっぱいあります。学校の先生が「お前ら、夢なんてほとんどかなわないからな」なんて、思っていても言ってはいけないわけですよね。
でも、現実の世界では、ほとんど夢はかなわないわけで、だから先生とか親とかに対して、「言ってることと違うじゃん!!」ってなる。
その時に、親や先生が言えないことを言ってあげる何かが必要なんです。映画でも漫画でも、何でもいいんですが、その中で、絵本はすごくいいポジションにあると思います。
「どんなに努力したってかなわない夢ってあるよね」とか、当たり前の話ですが、その当たり前の話を、当たり前に表現するというのが実は難しかったりして、それを面白おかしくするっていうのはさらに難しい。でもそういうところにチャレンジしたいです。
「本当はこうだけど、それって考えようによっては逆に面白いよね」ってことが言えたら、世の中が面白くなると思うんです。
――死というテーマは、『このあと どうしちゃおう』ですっかり描き切れたのでしょうか?
僕が言いたかったことは、結構この本で言えたと思っています。
だから、僕自身が誰よりも『このあと どうしちゃおう』って思ってます。自分が付けたタイトルで、僕自身が困っちゃってる。
この次は具体的に何かが決まっているわけではないのですが、なるべくくだらないことを一生懸命やろうと思います。
死みたいな、いわゆる深刻に思われているテーマと、すごくくだらないと思われているテーマを、同じ熱量でやりたい。
「大事と言われてることは本当に大事なのかな?」「くだらないと言われていることは本当にくだらないのかな?」と、その両者の間を行ったり来たりすることで、「本当にそれしかないのかな?」というものが見えてくるかもしれません。
問題は、年をとってくると、「いいこと言いたい病」というか、「いいこと言ってやった」というのが気持ち良かったりするんです。
自分の経験を生かしてほしいとか、教えてあげたいとか、「せっかく読んでくれる方がいるなら、何か心に残ることを言わなくちゃ」とか、いやらしいことをつい考えちゃう。
それだと子どものころの自分に嫌われちゃうんです。
だから、その欲望と闘うのが、すごく難しいところです。
――ありがとうございました。
インタビューの後には、仕事場も拝見。その場でイラストも描いてくださいました。
死んだおじいちゃんが書いた、「このあと どうしちゃおう」ノート。作者のヨシタケさんが、ものすごく真摯に、死というテーマと向き合っていらっしゃいます。
重いテーマなんだけど、大人、子どもに関係なく、読む人ごとに楽しめる一冊。子どもの時に読んでみて、大人になってもう一度、読み返してみたらさらに新しい発見があるかもしれません。
ちなみに、「いい葬儀マガジン」の編集スタッフの子ども(5歳)にこの絵本の感想を求めたところ「おじいちゃんがリンゴになってた!」と大喜びだったようです。
(小林憲行)