「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」作品集

友への手紙

教え子よ!

渡会 雅さん(62歳) 千葉県柏市

『邦人、ヨーロッパアルプスで滑落死』――ある朝、小さな新聞記事の中の教え子の名前に釘づけになった私は、一瞬戸外の蝉の鳴き声がそそり立つ岩壁にこだまするような気がした。その一ヵ月程前、私は彼とレストランで食事をしたばかりだった……。

高校時代に自転車で日本一周、大学には進学せず、ビルの窓拭きで資金を稼ぎ、世界の山を次から次へと制覇していたソロクライマー。専門誌に載る彼の登攀記録を読む度、植村直巳の跡継ぎはこいつしかいないと思ったものだ。 片手で懸垂が出来る太い腕、真っ黒に日焼けした顔、粗末な衣服。 「お前、何でもいいから注文しろよ」 「じゃあ、ステーキにしていいですか?」 肉を貪りながら、事も無げに語る死と紙一重の山行。その日もモンブランで宙吊りになり、ヘリで救助されたときの代金を保険で支払うため、請求書のドイツ語の分かる人を紹介してほしいと私の所に来たのだった。 「じゃあ、Mに頼めば良かろう。彼女、大学でドイツ語専攻だよ」 中学時代、文化祭で映画をつくることになり、校舎の屋上から飛び降り自殺する悲劇の主人公役を買って出たK。そのクライマックスの撮影で笑い出してしまう。 「だって、先生、Mの涙が嘘っぽくてさあ。水でごまかすんじゃなくて、僕が死ぬんだから本当の涙を流してほしいよ」 ポニーテールに髪を編んだ美少女のMは、「だってー」と顔を真っ赤にする。きっとKが好きだったのだろう。

斎場の入り口、岩壁に素手でしがみつくKの大きな絵の前でMが泣いている。 「先生、私、事故の前に彼からのプロポーズを断ったの。でも、その所為じゃないよね」 「そんなことがあるものか」と彼女の肩に手を置いて、私はKの生前の言葉を思い出す。 「人に見向きもされなくていい。何も考えずただひたすら登る」、「女の人はマッターホルンよりも手強い」、そして、何よりも「僕は僕で良かった」――彼がテレビのノンフィクション番組の中で口にした名言。

Kよ、Mへの雑念が君の死を招いたんではないよな? 単なる事故だったんだよな? もし、誰かの所為であるとしたら、それは登山などに興味を抱かせてしまった私だろう……。


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