「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」作品集

子どもたちへの手紙

今は亡き我が息子(長男)へ

田中 るり子さん(50歳) 青森県五所川原市

この世に私の子供として産まれ、私、夫、娘と4人家族で20年間過ごして来た日々、今でもしっかり覚えています。そしていつか又産まれ変わって私の胸に抱かれる日を待ち望んでいます。 
2004年 3月27日 朝4時45分 突然私から去って行ってしまいました。交通事故でした。

息子は仙台の中央理容美容専門学校卒業後、母親の私に親孝行すると青森に帰って来ました。青森で仕事する矢先に息子の友達が雅也の帰省祝いすると何人か集まり居酒屋で飲んだそうです。私には友達の「浩二君が迎えに来たから遊びに行って来る」と言って出掛けました。私は二人だけで遊んでいるものと思っていました。浩二君が迎えに来るまでは「僕が卒業してもうお金かからなくもなるから、お母さん新車買えよ」と言って一緒に車屋さんに見に行ってました。その帰りスーパーの買物手伝ったりと、いつも通りの時間を過ごしていた。それが最後になってしまおうとは考えもしない出来事でした。

友達数人車何台かに分乗して帰路に向かった途中に私の息子が乗った車だけが事故をおこしてしまった。息子は助手席、後座席に友達二人と4人で乗ってましたが助手席に座った息子は即死状態だったと思われますと搬送先の医師に宣告されました。重症や軽傷をおいながらも他の三人は生きている。
私はまさか自分の息子が…息子の変わりはてた顔を見て「雅也じゃない!違う!雅也じゃない」と言っても掛けつけて来た息子の友達は皆「雅也、死ぬな目覚ませ!!」とさけんでいる。私は間違いよ、雅也の顔じゃないと何度も息子の顔見た。でも、何度見ても息子の顔と身体だった。
「雅也!お母さん助けに行かなかった。さぞ恐かったでしょう、痛かったでしょう」
と思うと悔しくて、悔しくて……
何で私の息子だけが死ななきゃならないのか、消防遂員、レスキュー隊員、警察者、医師ら、息子にかかわった皆さんに
「何故息子を助けてやらなかったの?即死だとほったらかしで一番最後に救出するのか?レスキュー来てるなら、どうして真先に酸素マスク掛けてやらなかったのか?あなた達が息子を殺したんだ」
と泣き叫けびました。

憎かった。 息子を亡くした悲しみが、いつのまにか憎しみに変わり、事故当初「あなた達三人は助かって良かった」と言ってた言葉は「あなた達も死ねば良かったのに」と心の中は叫んでいました。私の心は鬼にでも蛇にでもなっていたでしょう。たまたま息子の乗った車を運転した友達だけを責め、恐りをその親、兄弟にまで恐りをぶつけてしまった。友達として良き友達だったのを知ってても私の感情はおさえる事できなかった。息子に怒られる。こんな事してたら息子に怒られるし成仏できないと夫や親戚みんなに言われた。自分でもそう思う。でもどうしていいのか分からなかった。息子に帰って来てほしかっただけだった。

息子は美容師の国家試験の発表も待たずにこの世を去りました。発表はちょうど葬式の日に当たり、当然発表など仙台に見に行けません。発表が気になりながらも息子への悲しみで身体が動かずただ息子の身体を抱いて寝ていました。
娘は「お母さん、雅也のこんな日だからこそ綺麗に化粧して髪も結って綺麗にしなきゃダメだよ。お母さんのみっともない姿を雅也の友達みんな見たら雅也きっと悲しむと思う。いつも綺麗でかわいいお母さんと友達に自慢してるの。今日は雅也の為にたくさんの友達が来ると思うからお願いだから顔洗ってちょうだい。顔洗ったら真理がお化粧してあげるよ。髪も結ってあげるし喪服も着せてあげるから」と娘の言うなり顔洗い鏡を見た時、私の髪は真白になっていました。 自分の顔や髪を見た時、「今鏡を見てる私は現実なの?夢であってほしいのに悪い夢よ早く終わらせて雅也に会いに行きたい」と泣いていました。そんな姿を見ていた娘はそっと私の肩を抱いて「だいじょうぶだから、真理がいるから」と言い私にお化粧してくれた。

葬式会場に着き、会場内を見ていた。そこには、どうしてでも息子の写真が飾ってある。ボウゼンと立ったまま写真見ていると会場内の電話が鳴った。手伝いに来てくれた人が出た。「ママ、仙台の先生から電話だよ」 電話は息子の美容師学校の担任の先生でした。
「もしもし、雅也君、合格していました。雅也君の受験番号がありました。間違いなく合格しています。」
との言葉でした。先生も心配で見に行ってくれていました。仙台の友達からも合格していましたよ。「おめでとう」のメッセィジが私の携帯に入っていました。私は思わず「合格?合格してたぁ~、ありがとうございます」と何度もつげて電話切りました。真すぐ写真に向かって「雅也!ヤッター!!雅也合格だよ。合格してたんだよ。これでやっと念願の美容師さんになれたんだよ」と大声で叫んでいました。夫も泣きながら「雅也よくヤッター!、さすが、わのワラシだ」と泣き喜んでいました。会場内も思わずみんな「雅也、おめでとう。バンザイ、バンザイ」と手をたたきながら泣き喜んでいました。
「雅也聞いているよね。合格したんだよ。何も恐い事ないからどうどうと胸張っていいんだよ」
と写真に向かって話していました。
たった一人ぼっちでこの世を去り、あの世へ一人旅しなきゃならない息子を思うと淋しいだろう。悲しいだろう。心ぼそいだろうと自分のやり残した美容カリスマへの夢も実現出来ないまま、さようならしなきゃならない自分に腹立ち気が小さくなっているだろうと。だからせめて最後に「雅也どうどうと胸張ってあの世に行っていいんだよ」と私は息子に言いました。立派な美容師さんなんだから。お葬式に通報が間に合って本当に良かった。先生や友達に感謝しております。 ありがとう。

葬式終った後、息子の後を追って津鉄列車に車ごとつっこもうと列車が来るの待ってアクセル踏んだ。
その時、私の携帯が鳴りました。今死のうとしてるのに誰だろう電話くれる人は・・・迷いました。列車は通過してしまった。
この世の最後に電話来れた人と思い出にしようと電話に出ました。電話くれたのは私の娘でした。
「お母さん何処にいるの?真理を一人にしないで!お母さん死んでしまったら真理一人ぼっちになってしまう、どうしていいか分からなくなってしまう。お願いだから真理を一人にしないで、今すぐ真理の所に帰って来て」
と泣きながら叫んでいました。私は娘の言葉聞いてハッと我に帰り、
「ああ、私にはもう一人の子供がいる。娘を残しては死ねないのか。私が死ねば弟を亡くしたショックと母親との二重の悲しみをあたえてしまう。私よりもっと辛い人生になってしまうではないか……」 
私は自分の事だけを考えていました。
「私は今は息子の所には行けない。もう一人の子供娘を残しては死ねないのだ」
と泣きながら家に帰り、娘と抱き合ったまま泣きくずれました。 列車につっこもうとアクセル踏んだ時に息子が娘に電話させたんだと思います。
「お母さん生きていてくれ」
と叫んでいるのが息子の声でした。

そして又、死のうとしたのは私だけでなく息子の高校時代からの友達も後追い自殺しようと死場所探していたそうです。歩き疲れて寝こんでしまった時、雅也が夢に出て来たそうです。
「自殺したら僕には会えない。自殺した人は僕が居る場所には来ないんだよ。行き場所が違うんだよ」
と言ったそうです。友達はそれじゃ雅也に会えるには自分の命を全うしないと会えないのか、雅也は天国で修行していると言っていた。それは何なのか僕には難しくて良く分からなかったけど
「雅也が天国で頑張るなら僕はこの世で頑張る、そしていつか雅也に会える日が来るまで雅也に負けないように立派に仕事するんだ。雅也あの世に行っても頑張ろうとしてるのに僕は何を考えていたんだ、雅也に笑われてしまう、僕は雅也と夢の中で約束した。自分の寿命の終わりが来た時、その時に会おうよ」
「だからもう死のうとは思わない。雅也の分まで生きて雅也がやり残した事一杯あると思うから雅也の分まで頑張るんだ」
と話してくださいました。私はこの言葉を聞いた時、母親の私に伝えるように夢を見せたと思いました。自殺したら息子に会えないなら何の意味もない。 私も生きよう。いつか息子に会える時が来るまで頑張ろうと思う。

息子の死から6ヶ月過ぎた頃からか息子は私に色んな夢を見せてくれる様になった。
「お母さんただいまぁ、やっと僕がここにいる事気づいてくれたね。僕はもう青森に帰って来ているんだ。この家に居るんだよ。 これから先もずっとお母さんの側に居るからね」
この夢を見た時、世の中がパッと電気がついたかの様に明るくなりました。 息子の死後、目の前は真暗になっていた。 それに気づかず毎日を過ごしていたのでしょう。人の話してる言葉も聞こえてこなかった。心を閉ざしてしまったと同時に耳も閉ざしてしまったのでしょうか。 今では耳が難聴になり小さな声は聞こえなくなってしまった。
「そうよ、私の雅也は母親の私を置いて何処にも行くはず無い。この家に居るんだ」
そして、生きていた時と同じ様に車や通りすがりの人達から危害受けないように私の左一歩前を必ず歩いてくれていると信じています。

それから又、別の友達が雅也の夢を見たとお線香あげに来て下さった男の子がいる。 その子は保育園時代からの友達でいつも一緒に遊んでいた一人である。 その友達の夢の話しでは雅也と友達何人かで芦野公園の駐車場でスケートボードで遊んでいた。そんな時、雅也が急に「わ、これで帰る」と言った。友達みんなは、 「まだ早いねえ、外はまだこんなに明るいしまだ遊んでいるべぇ」雅也は 「もう時間だから帰えねばまね」 と帰ろうとした。友達は 「雅也、おめぇ、何処さがいぐだがぁ?仙台にでもまだぁ戻るだがぁ?」と聞いた。 雅也は、 「いやぁ、何処さも行がねぇ、わは、もう青森に帰って来たんで家に帰るんだ」 と言ってみんなに背を向けて帰り歩き初めた時、「僕はどうしたんだか急に自分でも夢の中だから訳が分からないのだけど。」 「雅也、おめぇ、お父さんとお母さんばどう思ってらんだばぁ?」と聞いたんだよ。 そしたら帰って来た返事が、背中向けて歩いてた足を止めて僕に振り返って
「お父さんとお母さんだ~い好き!!」
「お父さんとお母さんの子供で良かったぁ~。」
と今まで見た事の無い笑顔で手を振りながら背を向けて歩き去って行った。
「帰った方向は家に向って歩いて行ったから間違いなくこの家に帰っているよ。」
「今まで雅也の笑顔ずうと見て来たけどあんな笑顔初めて見た。本当に幸せそうな顔してた。きっとお父さんとお母さんに伝へてほしくて僕に夢見せたんだと思う。だから今日中に仕事遅くなってでも教えに行かなきゃと来たんだけど夜遅くなってゴメン」
と、友達は話して下さいました。
私と夫は泣いてしまいました。そしてよく話して下さった事感謝しております。 私達への心のこもった言葉のプレゼントとしてけっして忘れる事はないでしょう。 これから先への明るい光を照らしてくれた。自分が今この世でも遊んでいられない。 あの世に行ってしまわなければならない時期が来てしまったんだと思う。だから最後に親の私達に話せなかった事を友達に伝えてほしかったんでしょうね。

生前、20才を迎える一週間前に私に置き手紙がありました。息子の誕生日は5月16日息子はゴールデンウィークディーに家に帰って来ていました。仙台の学校に帰る前日、誕生日パーティーを開きました。誕生日パーティーでも今年は二人だけの誕生日でした。 娘はオーストラリアに留学中、夫は仕事が忙しく名古屋で仕事してまして帰って来れなかった。たった二人だけの誕生日。 家族4人そろわなくて、ちょっと淋しかったけど今となれば20才の誕生日祝ってあげて本当に良かったと思います。
来年は21才になる。来年は誰と一緒にお祝いしようかな?来年は新らしい顔が居るかも?それは雅也の彼女かもね。雅也の彼女と一緒に誕生日祝いたいなぁと笑いながら雅也と話していました。
「彼女と二人だけの誕生日はやめてね。必ずお母さんも一緒にお祝いするように。」
と半分焼きもち焼きながら話していました。
連休が終わり仙台に帰る前に書いたのでしょう。私が仕事から帰ったらテーブルの上に置き手紙がありました。 これからの20才への気持ちを書いていました。これが自筆です。

20才にもなって字は汚たないが……。 私に似たんでしょうね(笑い)
私はこの手紙読んだ時、 息子もまだまだ子供だと思ってたらもう20才、これからの20才に向けての気持、もう大人になったんだなぁ。 私達の体まで心配するようになったかと頼もしさを感じ、これから先が又、楽しみになっていました。 それがこんな形で残ってしまうとは………。
今では私の宝物です。 私の子供として産まれ20年間あっと言う間だったけど雅也と一緒に過ごした日々とっても楽しかった。 笑った顔、泣いた顔、おこった顔、何かに悩んでいる顔、どの顔も忘れる事は無い。 私の大事な息子だから。

家族思いの優しい子だった。 背が高くジャニーズ系の顔になり、私は真面目にジャニーズに入れようかと考えた日々もありました。 「おの雅也よりカッコイ~イ男の子はいねよなぁ~」といつも夫と話していました。 私の自慢の子供だったので親バカを十分に世の中に振るまいてたと思います。(笑い)
本当に私は幸福でした。 息子の死に直面するまでは……
愛する夫、 愛する子供二人に恵まれて 一つのテーブルを四人、家族で一緒にごはん食べながら、おしゃべりして笑い声の絶えない、ごく普通の家族でいる事が私の幸福その物でした。
そんな息子も今は、七回忌になります。 今月、3月27日で七回忌です。 いつの日か憎かった運転してた友達も許すようになり、今では一人の息子の友達として迎い入れ、自分の怒りや、悲しみをぶつける場所見つけられず、口ばしってしまった事、憎んでしまった事を詫びました。

息子が居なくても、いまだに、男の子も女の子もこの家に遊びに来てくれてます。 お墓にもお線香や、ロウソク、お花、お菓子お酒、たばこ、といろんな物、供へられています。 息子はたくさんの友達に恵まれ、息子自信も幸福だったと思います。
雅也、たくさんの友達残してくれて ありがとう! 雅也の友達がお母さんの面倒見てくれてます。
娘もまた、
「いつかきっと雅也の産まれ変わり真理が産んであげるから、その日が来るまで必ず元気でいるように身体を大事にするんだよ」
と私達と約束しながらオーストラリアに帰って行った。その言葉を夫と一緒に信じ心の支えに毎日を頑張って生きて行こうと約束しました。 息子に感謝するのは私です。

この二十年間いつも私の側に居てくれてありがとう!
お母さん、とっても幸福でした。
雅也、 本当に ありがとう!

追伸
雅也、雅也生きてた時、お母さんまだテニスレベルはC級クラスだったけど今では、A級レベルになったんだよ。
凄いでしょう。
お母さんA級だよ。(エッヘヘヘ…)(^o^)/b
これからも応援頼むよ!(^_^)b

【受賞後のお便りより】
受賞記念のお写真このたびは、「あの人へ贈る言葉」の銅賞入選のお知らせいただき誠にありがとうございました。
インターネットで発表の日から10日も経ってから調べて見ました。
発表の日は知っていましたが、まさか自分が入選しているとは思いもしなかったので忙しさもあり10日も遅れて見ました。
自分が応募したコンテストのにはどんな方々が選ばれているのかと開いてみました。
金賞、銀賞と見ているうちに、
「やはりね、都会の人達の名前ばかりで、私の名前は無いね」
と思い閉じようとした時に、
「私が書いた題名と似た題名を書く人もいるもんだ」「いったい、どこのどなたなんだろう?」
ともう一度開き直したところ、私の名前でした。ビックリ!!
「うっそう!?私?本当に?」
半信半疑でした。でも、どうみても銅賞のようで、銅賞だったら、すっごいよう!

その夜は興奮してしまい、全く寝れませんでした。
主人も、娘も「お母さん、何やらかしたの?」とビックリしていました。
私はただ、息子を亡くした淋しさと息子と思う気持ちを誰かに読んでくれたらと、締切日10日前にこの応募を知り急いで書きました。
本当に夢の様で感激しています。
実行委員会の皆様、本当にありがとうございました。


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